『すえっこOちゃん』という本を借りた。Oちゃんのほんとうの名前はオフェリアだけど、いつもOちゃんと呼ばれている。スウェーデンのある町に住んでいる七人きょうだいの末っ子で今は五歳。年上のきょうだいがいるのでおませさんだそう。奔放ではちゃめちゃだけれど、OちゃんにはOちゃんの理屈がしっかりあって行動している。わたしは長女だからOちゃんの行動が少しうらやましく、同時にOちゃんがなにを思いついてなにをするのかわくわくしている。
この本を読んでいてなんとなく昔のことを考えていた。ぼんやりとした記憶のなかで思い出したことがある。子供のころ、電気を消された部屋では字が見えなかったから、まだ起きているのがわかると怒られるから、でも続きが読みたくて布団の中で懐中電灯をつけて読み続けていた。気まぐれに与えられた本でも、本であれば、文字が読めればそれでよかった。
何度も怒られて、それでも何度も繰り返した。ベッドと机だけが自分のもので父の箪笥がドンと置いてある部屋を与えられてからもそれは続いた。他人の箪笥が置いてあるということは、他人が自由に出入りできるということだ。わたしはいつ入られるかひやひやしながら(だってノックもされないのよ!)、家鳴りにびくびくしながらベッドについている小さいあかりで本を読み続けた。
毎日峠道を超えて学校に行っていたので、登下校の時間がほんとうに無駄だと思っていた。ひとりで帰るならわたしに戻る時間ができてそれはよかったのだけれど、そうでないときはずっと「わたし」でいなきゃならない。その分、家で「わたし」からわたしに戻る時間が必要だったから、本を読む時間が足りなかった。
寝る時間が惜しかったし、寝るのが怖かった。寝つきの悪いこどもだったしそれも特性だったのだと思う。ブツっと途切れるようにしか眠りにつけなかったから、読み続けて体力の限界がきて始めて眠りに落ちた。「電気つけっぱなし!」と毎朝怒られたが、それでもやめられなかった。別の人生が面白すぎて。
でも今よりもっと、純粋に別の人生を生きる(それはわたしにとって本を、物語を読むことだった。映画がそうだったひともいるだろうし、創作がそうだったひともいるだろう)ことが楽しかった。一生わたしではない別の人生は歩めないと知る由もなかったころ、世界は小さくて、全てがわたしの手のひらの上にあった。
子供のころって(わたしは田舎生まれ田舎育ちだし、自由にどこにも行けなかったから)世界が本当に小さくて、物語と違って、なんてつまんないんだろう!とよく思っていた。だからこそわたしの王国があったわけだけれど(もちろん今もある、年齢と投薬でずいぶんと小さい国になったとはいえ)、今でもわくわくする本があるから、まだこの王国は大丈夫かもしれない。