2010年10月1日金曜日

九月の読書まとめ

いつか読んだ本の記憶
2010年09月
アイテム数:16
ガラスの宮殿 (新潮クレスト・ブックス)
アミタヴ ゴーシュ
読了日:09月02日

青い野を歩く (エクス・リブリス)
クレア キーガン
読了日:09月05日

赤い薔薇ソースの伝説
ラウラ エスキヴェル
読了日:09月08日

悲しみを聴く石 (EXLIBRIS)
アティーク ラヒーミー
読了日:09月11日

血族 (文春文庫 や 3-4)
山口 瞳
読了日:09月12日

マグレブ、誘惑として
小川 国夫
読了日:09月14日

天使の運命 上
イサベル・アジェンデ
読了日:09月18日

天使の運命 下
イサベル・アジェンデ
読了日:09月19日

ウォーターランド (新潮クレスト・ブックス)
グレアム・スウィフト
読了日:09月20日

綺譚集
津原 泰水
読了日:09月22日

図書館警察 (Four past midnight (2))
スティーヴン キング
読了日:09月23日

赤朽葉家の伝説 (創元推理文庫)
桜庭 一樹
読了日:09月25日

記憶の国の王女
ロデリック タウンリー
読了日:09月27日

幸福な食卓 (講談社文庫)
瀬尾 まいこ
読了日:09月27日

そんな日の雨傘に (エクス・リブリス)
ヴィルヘルム ゲナツィーノ
読了日:09月30日

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2010年9月26日日曜日

ギムレット味の別れ

 ジンとライムジュースをシェイクしたカクテルをギムレットという。カッと喉に広がっていくジンの強さを味わうのなら、ストレートで飲むよりずっと美味しい。私はじゃぶじゃぶ飲みたいので、濃いめのジントニックが好きだけれど、美味しいジンがあるのなら多分、ギムレットにしてもらうのがいいと思う。

 ハードボイルドに生きたい、と強く思う。タフで優しいハードボイルド、つまりマーロウのように時折ウェットに流されそうになりながらも、踏みとどまれるくらいのハードボイルドさで。勿論人の親なので道徳は身につけておきたいけれど、そういうハードボイルドさではなくて、もっと根本的にハードボイルドに生きたい、母だからこそ。

「さよならをいうのはわずかのあいだ死ぬことだ」*とは、とても有名な一文で、出典を知らなくても聞いたことのある人はいるだろう。そしてこの一文を読む為だけでも、チャンドラーは読まれるべきである。

 たましいに重さがあるのなら、さよならの度にたましいも削られているだろうか。最期の息を吐いた後、人は21g分軽くなるという。もちろん、これは根拠の無い嘘っぱちであるが(そもそもたましいすら発見されていないのだ、この医療と科学が日進月歩している現代では!)、実際にたましいがあるとして、そしてそのたましいの重さが21gだとして、今私に残っているたましいの重さは一体どれくらいだろう?これからどれだけの人生が残っているかはわからないけれど、完璧に終えるまで残っていてくれるだろうか。これまでに幾つものさよならがあったはずだった。数に入らないようなほど些末な別れから、数にしては一つだとしても、とんでもなくごっそりと削られるほどの別れまで、生きている上で幾つか別れは経験しないではいられない。その度に私は少しずつ死んでいったのなら、今の私はいったいどれくらいの割合で——例えば生まれたばかりの赤ん坊に比べて——生きているというのだろう。

 人とさよならを何度繰り返しても、というより繰り返せば繰り返すほどに、僅かずつさよならへのハードルが下がっていくし、うしなうことに慣れていく。その都度新しい別れではあっても。初めてのさよならは、やっぱり私からだった。もう充分にお互いを殺し合った果てに、そこから飛び降りた。涙はもう出せなかったし出す必要もなかった。わずかに死んだはずなのに、それでも歩みは軽かった。それは多分21g分のたましいの内の、数に満たないほどの重さを失っていたからだ。ロマンチスト!それでも夢見ずにはいられない、早過ぎないギムレット。

 *『長いお別れ』(“The Long Goodbye”)ハヤカワミステリ文庫 清水俊二訳による。

2010年9月4日土曜日

Benediction

 色々な本を集めてきた。本というよりそれは物語への扉を、本という形にしただけなのではあるが、それでも随分沢山の本を集めるほどになったのは、二十歳を過ぎてからではなかったか。子どもの頃、あまり沢山の本は家になかった。限られた数しかなかったので、それらを繰り返し読んでいた。また小学校の図書室でーーそこは薄暗くねずみいろ(あれはグレイと言えるお上品さではなく、ねずみいろと言う少し下卑た色であった)のじゅうたんが敷かれた部屋で、土足禁止と赤いマジックで書かれた張り紙が扉に貼ってあった。ひとりにつきひとつの代本板を、まるで聖書を抱く修道女たちのように胸にして、足しげく通った。図書室にいるためだけにーー出会った『アリス』でさえ、私は親に買って欲しいと言えなかった。私には子どもの頃、本をねだるということは卑しい事ではないかと思っていたからだ。本は与えられるもの、私はそれを受ける者。そして本は永遠だとも思っていた。絶版もなく再販もない。図書室にある本は永遠に図書室にある。図書室にさえ行けばいつもある。“そこ”にあればずっと“そこ”にあり続けるのだと思っていたからだ。

 本はいつも親から与えられていた。適当に選んで適当に与えられてきた。それでじゅうぶんだった。子どもだった私の世界は今から見ればとても狭くて小さいものであったが、子どもの私にとっては広過ぎた。だからこそ、与えられた本だけで満足できた。狭いところにすっぽりと収まると安心するでしょう?それと同じ。

 大学に通い始めて仕送りを貰うようになって、初めて本は手に入れ続けなければそこにとどまり続けることがないのだと知った。手放してしまったらそこで、その本は永遠に失われるのだと知った。この手に掴み続けなければ、本はやがて私の手から離れて歩き出す。意思を持っていようと持っていまいとに関わらずに。本は読まれる人の元にしかいられない。私ではなく本に決定権があるのだった。例えば同じタイトル、同じ出版社、同じ価格、同じ装丁のものを後から買いなおしたとしても、それはもう私にとっては同じ本ではない。本を手放すということは、本の名前を失うということだ。一度でも手を離れてしまったら同じものにはなり得ない。数えるほどの引っ越しの中で私はいくつも本を古本屋に売って僅かにお金を手にしたが、それは本が私から離れる為に払われてきた手切れ金だったのだ。


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 ほんとうのものが欲しい。ほんとうのなまえを刻んだものが欲しい。ほんとうの名前が刻まれていると私にも見える二つの目が欲しい。私は本にとって通過点なのだ。どこか遠いところへ本が行く為の。だから私がどれだけ沢山の本を手に取ろうが所有しようが、また所有し続けようが、私は永遠に遠くへは行けないのではないか。


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 一つの本棚と、半分の本棚(もう一つの本棚は、子どもと共有しているので)、それと二つの段ボール、それほど大きくない革のトランクに収まるだけの本を私は今、所有してはいるが、その中のどの本のことも、私は理解してはいないとわかっている。もしもっと理解していればずっと遠くへ行けたのだろうけれど、私には理解出来るほどの知に祝福されてはいない。言い訳だと言われればそうだと答えられるほどに私は厚顔無恥である。これは扉である。誰の為でもない扉である。開かなければどこへも行かれない扉である。理解するべきものではなく、いっそ感じる為のものである。

 私はなにも変わってはいない。未だに胸に代本板を抱いて足早に廊下を、しめった図書室に向かう子どもだった私と、どこも変わりはない。失い続けた本の名前を取り戻したくて、私はまた本を集めるのだろう。今日もまた本を買った。そこにある名前を見たくて。きちんとした通過点になりたくて。

2010年9月1日水曜日

八月の読書まとめ

いつか読んだ本の記憶
2010年08月
アイテム数:8
乳と卵
川上 未映子
読了日:08月02日

ノーサンガー・アビー (ちくま文庫)
ジェイン オースティン
読了日:08月03日

ベアト・アンジェリコの翼あるもの
アントニオ タブッキ
読了日:08月06日

首鳴り姫
岡崎 祥久
読了日:08月18日

図書室からはじまる愛
パドマ ヴェンカトラマン
読了日:08月21日

高慢と偏見とゾンビ(二見文庫 ザ・ミステリ・コレクション)
ジェイン・オースティン,セス・グレアム=スミス
読了日:08月24日

ニューヨークに舞い降りた妖精たち
マーティン ミラー
読了日:08月27日

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八月に読んだ本の中で一番笑ったのはやっぱり『高慢と偏見とゾンビ』だろう。外国の、特に英米ヨーロッパ圏の人の、東洋的なイメージはあまり変わらないのが面白い。ゾンビは期待していたより少なかった。
一番キュートなのは『ニューヨークに舞い降りた妖精たち』。妖精のゲロは人間にはいい香りだなんて、ねえ!

2010年8月28日土曜日

夏の終わりと大滝詠一

五年ほど前の夜、ずっとおおたきえいいちを聴いていた。たまたま行った楽器屋に、ちょうど並んでいたのでつい、買ってしまった。おおたきえいいちのことを何も知らないまま。

夜になる度にCDをセットしてごついヘッドフォンをつけ、明け方近くまで熱心に聴いていた。ねとつくかねとつかないかすれすれの、柔らかいストリング声が部屋の中ではいつも停滞していて、心地よかった。何か機械を通した夜の声は、昼間聞く声よりもすこし湿っている。実際に会って話すよりも、ずっとしっとりしていて、耳にきちんとフィットする。そういうことを知ったのはその頃だった。だから私はいつも電話を待っていた、薄暗い部屋で。洞窟のような部屋でヘッドフォンで聴きながら。
夜明けまで長電話して

受話器持つ手がしびれたね

耳もとに触れたささやきは今も忘れない 
私は空っぽだとずっと思っていた。誰にでも合わせたいと思っていたし、実際ある程度は合わせることも出来ていると思っていた。人の趣味によって自分の趣味を少しずらすだけ。ずらしたところにそれを置くだけ。そんなに難しく考える事はなかった。借りられる物は借りて、ひとつずつ読み、聴き、観続けていたら、少しずつではあっても自分の趣味との境目を埋められると思っていたし、埋めようともした。だから、私は完全ではないにしろある程度は空洞でいられる。少なくともその、私ではない別の人がいる間は。

けれど、段々そんなことをしている自分を理解し辛くなってしまう。別に自分のことなんて自分が一番知っているんだから、理解する必要なぞないと今ではまあ、納得はしているのだけれども、その当時の私にとっては、それーー自分をきちんと理解して律していることーーは一大事だったのだ。
もうあなたの表情の輪郭もうすれて

ぼくはぼくの岸辺で生きて行くだけ…それだけ…
まさか、魂がないのか?だから空っぽに感じているのか? 短絡的な私はすぐにそういう結論に行き着いてしまう。私はいつも魂を探していた。私の身体に宿るのは魂のうてなでしかないと思っていたので、本当の魂が欲しかった。SFの世界では機械たちが魂が無いことに気がつき、やがて憧れるように、私も本当の魂に憧れていた。

かけてくる電話の声の主こそ、私の魂のうてなにきちんと鎮座出来る魂だと思っていた。そう思いたかったから、思い込んでしまった。声の主の魂は、声の主の魂のうてなにきちんと収まっていたというのに、それを気付かない振りをしていた。

人が夜に眠って夢を見るように、私は夜じゅう起きて、夢を見ていた。おおたきえいいちを聴きながら、いつかこの空っぽのうてなに、きちんと魂が置かれる夢を見ていた。ほんとうのたましいのゆめは、脆く果無く虚しさが混じる。それでもその夢は幸せだった。
もう遠すぎて何も映らない…
A LONG VACATION』 大滝詠一

2010年8月15日日曜日

方舟のゆくえ

私は私を信用していない。迂闊には信用出来ない。私が怖いのはいつも私だ。他人ではなくて自分の中にある自分が怖い。考えている事と行動が、時折ちぐはぐになる。街頭の人形芝居で必死に物語を進めようとしているのに、下手くそな人形遣いがどうやっても糸と人形をもみくちゃにしてしまうような芝居だ。可笑しいのに笑っていられずにいたたまれなくなるお芝居を、じっと一人で見せられているような、演じているような、もう見たくもないし演じたくもないのに、やめようとするほど焦りだけが先走って、ことん、と倒れてしまうような、そんな芝居を毎日している。不毛だけれど、それをしなければ筋肉がこわばって固まっていきそうだから、そうするしか、方法を見つけられない。
 
私の毎日は、サーカスのようなものだ。時折ずれはするが決めた時間に始まり、なるべく決めた時間に終える。少々のアクシデントは愉快さに変えて、自分も子どもも誤摩化しながら終える。拍手喝采もなくヤジも飛ばないけれど、団長でもあり猛獣使いでもありピエロでもある私は、きっちりと毎回始まらせ終えなくてはならない。観客でもある私は、毎回律儀にそれを見なければならない。

毎度毎度、踏み外しそうな白い細いロープを渡っているようで、いっそ渡り終えずに落ちてしまいたいと思う。しかしその綱には足首とを繋ぐ丈夫なリングがあって、落ちようにも落ちられない。案外その綱は短いかもしれないのだけれど、暗闇の中ではどこまで伸びているのかもわからない。それをそろそろとつま先で探り、土踏まず辺りにロープが来るように歩き続けるしか道はないのだ。

ずっとバーを握っていると、どうして握っているのか、握らなくてはならない理由があったのか、手の緊張感と一緒に疑問も高まっていく。綱を渡る為に歩いているのか、ゴールに到達したくて歩いているのか、だんだんそれも暗闇に吸い込まれる。辿り着かないはずはないとわかっていても、足下だけにスポットライトがあたっている綱を渡っていると、もう落ちてもいいんじゃないかと思う。けれど別の私である団長はそれを許さない。自分で見ていてヒヤヒヤする。ヒヤヒヤしているのに手出しが出来ない。もう見るのもやめたいのに、やめられない。

毎日が綱渡り。だから日に一度か二度は、こんな生きにくい世の中なんか爆発してしまえと思う。けれども子どもが純粋にただ生きている事を思うと、くそったれ!と思いながらも爆発はして欲しくなくて、結局のところまたそのサーカスの準備も撤収もいそいそしてしまうのだ。ここから旅立てる方舟の夢を見ながら。明日も明後日も明々後日も、世界は続く、はず。私の方舟はまだ完成していない。

2010年8月8日日曜日

7月の読書まとめ

いつか読んだ本の記憶
2010年07月
アイテム数:11
二十歳だった頃
岩瀬 成子
読了日:07月02日

少女外道
皆川 博子
読了日:07月07日

受胎告知
矢川 澄子
読了日:07月10日

ボンベイの不思議なアパート
ロヒントン ミストリー
読了日:07月10日

ジェイン・オースティンの読書会
カレン・ジョイ ファウラー
読了日:07月13日

サフラン・キッチン (新潮クレスト・ブックス)
ヤスミン・クラウザー
読了日:07月15日

サラの鍵 (新潮クレスト・ブックス)
タチアナ・ド ロネ
読了日:07月26日

夜明け前のセレスティーノ (文学の冒険シリーズ)
レイナルド アレナス
読了日:07月27日

乙女の密告
赤染 晶子
読了日:07月27日

授乳 (講談社文庫)
村田 沙耶香
読了日:07月29日

サーカス団長の娘
ヨースタイン ゴルデル
読了日:07月31日

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滅びの王国

『すえっこOちゃん』という本を借りた。Oちゃんのほんとうの名前はオフェリアだけど、いつもOちゃんと呼ばれている。スウェーデンのある町に住んでいる七人きょうだいの末っ子で今は五歳。年上のきょうだいがいるのでおませさんだそう。奔放ではちゃめちゃだけれど、OちゃんにはOちゃんの理屈がし...