2010年10月1日金曜日
2010年9月26日日曜日
ギムレット味の別れ
ジンとライムジュースをシェイクしたカクテルをギムレットという。カッと喉に広がっていくジンの強さを味わうのなら、ストレートで飲むよりずっと美味しい。私はじゃぶじゃぶ飲みたいので、濃いめのジントニックが好きだけれど、美味しいジンがあるのなら多分、ギムレットにしてもらうのがいいと思う。
ハードボイルドに生きたい、と強く思う。タフで優しいハードボイルド、つまりマーロウのように時折ウェットに流されそうになりながらも、踏みとどまれるくらいのハードボイルドさで。勿論人の親なので道徳は身につけておきたいけれど、そういうハードボイルドさではなくて、もっと根本的にハードボイルドに生きたい、母だからこそ。
「さよならをいうのはわずかのあいだ死ぬことだ」*とは、とても有名な一文で、出典を知らなくても聞いたことのある人はいるだろう。そしてこの一文を読む為だけでも、チャンドラーは読まれるべきである。
たましいに重さがあるのなら、さよならの度にたましいも削られているだろうか。最期の息を吐いた後、人は21g分軽くなるという。もちろん、これは根拠の無い嘘っぱちであるが(そもそもたましいすら発見されていないのだ、この医療と科学が日進月歩している現代では!)、実際にたましいがあるとして、そしてそのたましいの重さが21gだとして、今私に残っているたましいの重さは一体どれくらいだろう?これからどれだけの人生が残っているかはわからないけれど、完璧に終えるまで残っていてくれるだろうか。これまでに幾つものさよならがあったはずだった。数に入らないようなほど些末な別れから、数にしては一つだとしても、とんでもなくごっそりと削られるほどの別れまで、生きている上で幾つか別れは経験しないではいられない。その度に私は少しずつ死んでいったのなら、今の私はいったいどれくらいの割合で——例えば生まれたばかりの赤ん坊に比べて——生きているというのだろう。
人とさよならを何度繰り返しても、というより繰り返せば繰り返すほどに、僅かずつさよならへのハードルが下がっていくし、うしなうことに慣れていく。その都度新しい別れではあっても。初めてのさよならは、やっぱり私からだった。もう充分にお互いを殺し合った果てに、そこから飛び降りた。涙はもう出せなかったし出す必要もなかった。わずかに死んだはずなのに、それでも歩みは軽かった。それは多分21g分のたましいの内の、数に満たないほどの重さを失っていたからだ。ロマンチスト!それでも夢見ずにはいられない、早過ぎないギムレット。
*『長いお別れ』(“The Long Goodbye”)ハヤカワミステリ文庫 清水俊二訳による。
2010年9月4日土曜日
Benediction
色々な本を集めてきた。本というよりそれは物語への扉を、本という形にしただけなのではあるが、それでも随分沢山の本を集めるほどになったのは、二十歳を過ぎてからではなかったか。子どもの頃、あまり沢山の本は家になかった。限られた数しかなかったので、それらを繰り返し読んでいた。また小学校の図書室でーーそこは薄暗くねずみいろ(あれはグレイと言えるお上品さではなく、ねずみいろと言う少し下卑た色であった)のじゅうたんが敷かれた部屋で、土足禁止と赤いマジックで書かれた張り紙が扉に貼ってあった。ひとりにつきひとつの代本板を、まるで聖書を抱く修道女たちのように胸にして、足しげく通った。図書室にいるためだけにーー出会った『アリス』でさえ、私は親に買って欲しいと言えなかった。私には子どもの頃、本をねだるということは卑しい事ではないかと思っていたからだ。本は与えられるもの、私はそれを受ける者。そして本は永遠だとも思っていた。絶版もなく再販もない。図書室にある本は永遠に図書室にある。図書室にさえ行けばいつもある。“そこ”にあればずっと“そこ”にあり続けるのだと思っていたからだ。
本はいつも親から与えられていた。適当に選んで適当に与えられてきた。それでじゅうぶんだった。子どもだった私の世界は今から見ればとても狭くて小さいものであったが、子どもの私にとっては広過ぎた。だからこそ、与えられた本だけで満足できた。狭いところにすっぽりと収まると安心するでしょう?それと同じ。
大学に通い始めて仕送りを貰うようになって、初めて本は手に入れ続けなければそこにとどまり続けることがないのだと知った。手放してしまったらそこで、その本は永遠に失われるのだと知った。この手に掴み続けなければ、本はやがて私の手から離れて歩き出す。意思を持っていようと持っていまいとに関わらずに。本は読まれる人の元にしかいられない。私ではなく本に決定権があるのだった。例えば同じタイトル、同じ出版社、同じ価格、同じ装丁のものを後から買いなおしたとしても、それはもう私にとっては同じ本ではない。本を手放すということは、本の名前を失うということだ。一度でも手を離れてしまったら同じものにはなり得ない。数えるほどの引っ越しの中で私はいくつも本を古本屋に売って僅かにお金を手にしたが、それは本が私から離れる為に払われてきた手切れ金だったのだ。
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ほんとうのものが欲しい。ほんとうのなまえを刻んだものが欲しい。ほんとうの名前が刻まれていると私にも見える二つの目が欲しい。私は本にとって通過点なのだ。どこか遠いところへ本が行く為の。だから私がどれだけ沢山の本を手に取ろうが所有しようが、また所有し続けようが、私は永遠に遠くへは行けないのではないか。
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一つの本棚と、半分の本棚(もう一つの本棚は、子どもと共有しているので)、それと二つの段ボール、それほど大きくない革のトランクに収まるだけの本を私は今、所有してはいるが、その中のどの本のことも、私は理解してはいないとわかっている。もしもっと理解していればずっと遠くへ行けたのだろうけれど、私には理解出来るほどの知に祝福されてはいない。言い訳だと言われればそうだと答えられるほどに私は厚顔無恥である。これは扉である。誰の為でもない扉である。開かなければどこへも行かれない扉である。理解するべきものではなく、いっそ感じる為のものである。
私はなにも変わってはいない。未だに胸に代本板を抱いて足早に廊下を、しめった図書室に向かう子どもだった私と、どこも変わりはない。失い続けた本の名前を取り戻したくて、私はまた本を集めるのだろう。今日もまた本を買った。そこにある名前を見たくて。きちんとした通過点になりたくて。
2010年9月1日水曜日
2010年8月28日土曜日
夏の終わりと大滝詠一
夜になる度にCDをセットしてごついヘッドフォンをつけ、明け方近くまで熱心に聴いていた。ねとつくかねとつかないかすれすれの、柔らかいストリング声が部屋の中ではいつも停滞していて、心地よかった。何か機械を通した夜の声は、昼間聞く声よりもすこし湿っている。実際に会って話すよりも、ずっとしっとりしていて、耳にきちんとフィットする。そういうことを知ったのはその頃だった。だから私はいつも電話を待っていた、薄暗い部屋で。洞窟のような部屋でヘッドフォンで聴きながら。
夜明けまで長電話して
受話器持つ手がしびれたね
耳もとに触れたささやきは今も忘れない
けれど、段々そんなことをしている自分を理解し辛くなってしまう。別に自分のことなんて自分が一番知っているんだから、理解する必要なぞないと今ではまあ、納得はしているのだけれども、その当時の私にとっては、それーー自分をきちんと理解して律していることーーは一大事だったのだ。
もうあなたの表情の輪郭もうすれてまさか、魂がないのか?だから空っぽに感じているのか? 短絡的な私はすぐにそういう結論に行き着いてしまう。私はいつも魂を探していた。私の身体に宿るのは魂のうてなでしかないと思っていたので、本当の魂が欲しかった。SFの世界では機械たちが魂が無いことに気がつき、やがて憧れるように、私も本当の魂に憧れていた。
ぼくはぼくの岸辺で生きて行くだけ…それだけ…
もう遠すぎて何も映らない…『A LONG VACATION』 大滝詠一
2010年8月15日日曜日
方舟のゆくえ
私の毎日は、サーカスのようなものだ。時折ずれはするが決めた時間に始まり、なるべく決めた時間に終える。少々のアクシデントは愉快さに変えて、自分も子どもも誤摩化しながら終える。拍手喝采もなくヤジも飛ばないけれど、団長でもあり猛獣使いでもありピエロでもある私は、きっちりと毎回始まらせ終えなくてはならない。観客でもある私は、毎回律儀にそれを見なければならない。
毎度毎度、踏み外しそうな白い細いロープを渡っているようで、いっそ渡り終えずに落ちてしまいたいと思う。しかしその綱には足首とを繋ぐ丈夫なリングがあって、落ちようにも落ちられない。案外その綱は短いかもしれないのだけれど、暗闇の中ではどこまで伸びているのかもわからない。それをそろそろとつま先で探り、土踏まず辺りにロープが来るように歩き続けるしか道はないのだ。
ずっとバーを握っていると、どうして握っているのか、握らなくてはならない理由があったのか、手の緊張感と一緒に疑問も高まっていく。綱を渡る為に歩いているのか、ゴールに到達したくて歩いているのか、だんだんそれも暗闇に吸い込まれる。辿り着かないはずはないとわかっていても、足下だけにスポットライトがあたっている綱を渡っていると、もう落ちてもいいんじゃないかと思う。けれど別の私である団長はそれを許さない。自分で見ていてヒヤヒヤする。ヒヤヒヤしているのに手出しが出来ない。もう見るのもやめたいのに、やめられない。
毎日が綱渡り。だから日に一度か二度は、こんな生きにくい世の中なんか爆発してしまえと思う。けれども子どもが純粋にただ生きている事を思うと、くそったれ!と思いながらも爆発はして欲しくなくて、結局のところまたそのサーカスの準備も撤収もいそいそしてしまうのだ。ここから旅立てる方舟の夢を見ながら。明日も明後日も明々後日も、世界は続く、はず。私の方舟はまだ完成していない。
滅びの王国
『すえっこOちゃん』という本を借りた。Oちゃんのほんとうの名前はオフェリアだけど、いつもOちゃんと呼ばれている。スウェーデンのある町に住んでいる七人きょうだいの末っ子で今は五歳。年上のきょうだいがいるのでおませさんだそう。奔放ではちゃめちゃだけれど、OちゃんにはOちゃんの理屈がし...
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『すえっこOちゃん』という本を借りた。Oちゃんのほんとうの名前はオフェリアだけど、いつもOちゃんと呼ばれている。スウェーデンのある町に住んでいる七人きょうだいの末っ子で今は五歳。年上のきょうだいがいるのでおませさんだそう。奔放ではちゃめちゃだけれど、OちゃんにはOちゃんの理屈がし...
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本があるところは、すこし埃っぽい匂いがする。それはとても甘く、柔らかく、同時に香ばしい。冷たいが同時に温かで、さざ波のように声が聞こえる。誰かの。遠い過去からの。近い未来からの。 本があるというその点においては、私にとっては懐かしく親しい場所なのだ。そこが初めての場所だとし...
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まだわたしが京都市に住んでいた頃、煙草を吸わない日はほとんどなかった。ちょうど二つ目の職場に勤めだした頃で、なんとなく吸えるんだろうなとは、吸う前から知っていたようにも思う。滑らかに煙は肺のあたりへ落ち、主に口腔から吐き出せた。秋だったと思う。けれど初めてにどの煙草を選んだか...