2017年10月18日水曜日

懐かしい未来・待ち遠しい過去

 よく晴れて暖かい秋の日の午後、夏の名残を思わせる強い日差しは、それはそれはノスタルジックだ。この日差しの事をよく知っているし、同じ季節を数え切れないくらい過ごしている気がする。同じくらいノスタルジーを掻き立てる日差しに、「日曜日の午後三時半、粉っぽい金色の午後の光」がある。初めてその感情に向き合ったのはまだ年齢が一桁の頃だったと思う。一人で遊ぶのにも飽きたし家族と何か話すのも億劫で、こっそりと上がった二階の部屋いっぱいに金色の西日が差し込んでいた時のこと。日の光は手を替え品を替え、わたしを惑わし、わたしを乱し、記憶を狂わせていく。

 途中まで再生したテープを巻き戻し、任意で止めた所から再生するように、わたしが記憶した秋がわたしに繰り返し語られている。インディアン・サマーというより『エンジン・サマー』。エンジン・サマー以前はこの物狂おしいデジャビュとノスタルジーの光をなんと呼んでいたのだろう。陽の光はいつも幻燈のようだ、ありえなかった未来や存在しない過去を脳内に照らし出す。わたしはわたしの中に映し出された幻燈をぼんやりと見て、空白の過去を待ち望み未来を懐かしむのだ。

 西日が差す度に生きていることさえももう懐かしい、懐かしくてたまらない。誰でもない誰かをぎゅっと抱きしめたくなる。まだこちら側に残っているのか、本当は向こう岸に行ってしまったわたしの記憶だけがわたしを思い出しているのじゃないのかと、確かめたくなって。

2017年10月16日月曜日

旅に出ない日

 あまりにも身体が重く、(これは肉が鉛になったようだ)と思っていたら寝坊した。身体が季節に追いつかないし、ついでに時間にも追いつかず遅刻をした。遅刻をしようと決めたら気が楽になって、のんびりパンなどを齧ったのだが、家を出る時間が近づいてくるととてつもなく辛い。まるで誰かの首に縄をかけるような、喩えるのもおぞましいような気持ちになってしまい、結局鉛のような肉体を引きずって出社した。

 

 週に五日くらいは八時間ずつ働くのだけれど、すごく時間の無駄をしているようで、事務所にいるといらいらする。いらいらするのでiPhoneでネットを彷徨う。リンクからリンクへ。ツイートから別のツイートへ。でもそのどれも、気が重くなるだけで本当はしたくないと思っている。今日は本が届いているはずだから、早く帰りたい。もちろん何も届かなくても早く帰りたい。

 雨がしばらく続いていて気温が下がった。朝夕に吐く息がほんのりと白い。山からは靄が立ちのぼり、空は明るい灰色、これはこの地方特有の現象だろう。ほっとする。寒い方がいくらかはましだ。特に雪が降ってくれれば勇気がわく。なぜならその雪をかき分けて進めばいいからだ。今年は雪が早く降ってほしい。

 果たして注文した古本は届いていたがまだ一頁も開いていない。本当はこんな時間まで、本も読まずに起きていたくないし、そっとしておかれたい。もちろんそうされてもいるのだが、まったく、足らないのだ。もっと深くそっとしておかれたい、わたしはもっと深く潜っていきたいと常に思う。泳いでいる時間はやや深く潜っていられるのだけれど、帰宅を急かされているような気も同時にする。この、時間には間に合っているのにまるきり遅刻しているような、焦りでもうずっとへとへとだ。

 もうずっとウェブでの日記を書いていないので、とりとめもないのだけれど、これはこのままにしておこうと思う。

2017年9月24日日曜日

Le murmure

 例えばGoogle(でなくてもいいし、そうであってもいい)がインターネットにアクセスするそれぞれのユーザーごとにカスタマイズした「SNS」に人々がアクセスしているだけで、本当はフォロワーもフォロイーも存在していなくて、画面をひたすら眺めながら自分だけが発言し、存在しないフォロワーとフォロイーに話しかけているならそれでもいいのに、と思う。なんというか空想上のSFぽくて。でもあまり人と関わらずにポチポチとキーを打っているだけのわたしには、もしそうであってもあまり変わらないのだろう、きっと。わたしの呟きは他の誰でもないわたしに宛てているのだと思う。(数に入っていないと気がつくより、初めから数の中に入らないでいた方が消費も搾取もされない。)

2017年9月22日金曜日

(北風と一緒にいれば寒くなんかないのよ)

太陽は雲と靄の向こうで光っていて、山からは靄が立ち上っている。白くて明るい、冷たい朝にわたしも起きる。窓の外には五線譜の音符に似た電線のつばめ、運転席から横目で見えるかさかさに乾いて風に巻き上げられる枯葉、これらは皆秋だ。冬ほどぶ厚くないぽってりとした雲、その向こうに光があるのがよく分かる。薄明るい季節が始まった。この辺りは冬になると晴れる事がほとんどない。もったりと厚くて重い綿のような、ホワイト多めのグレイッシュな雲で空が覆われていくのだ。秋とは、雨と雪に降り籠められている、白い季節の前触れ。

2017年9月12日火曜日

爪を折った録音テープ(セロハンテープで修復済み)

  その人が完全に世界から失われたとわたしが知った日のことを、この数日間はずっとリプレイしていた。脚色しながら繰り返したので、もうオリジナルの過去はないだろう。オーバーダビングと言うのだろうか?繰り返し録音/録画して、テープそのものが劣化し始めているところにさらに劣化の追い込みをかけるように、二倍速三倍速で録音/録画していくように幾度も。

  わたしはいろいろなことを思い出しながら新しく上書きして、ダビングしたテープのような怪しいサブリミナル効果付きの記憶を得る。マッドビデオ。記憶のリソースの為に「誰か」と「会った」過去にも、新しく別の過去を上書きして、「誰にも」「会っていない」事にする。なのに残しておきたい記憶ほど粗くおぼろげになっていくのは何故なのだろう?

 わたしは過去を忘れたかった。わたしは過去に慰められたかった。わたしは過去を愛したかったし、過去に愛されていたと思いたかった。でもそうではないから、わたしはあり得なかった未来の為にあり得ない過去を新しく作っている。わたしの過去はこうして失われていくのだろう。やがてフィクションの過去だけが残る。

2017年6月26日月曜日

聖堂

 オオキンケイギクはこの数年でかなり増え、とても小さな(猫の額とも言える)前庭の隅にも咲く。帰宅する際に視界に入るので、夕暮れ時などはぱっと明るく映る。猫の額の前庭だけでなく、犬走りの辺りや今は人がいない隣家とその境にも、花のコロニーが出来始めていて、どこから始まったのか、そもそも始まりがあったのかもわからない。

 家の裏側、日陰で少し湿っている場所には紫陽花がずっと植わっている。そのそばでもりもり伸びていたオオキンケイギクをごっそりと抜いた。もってりした紫陽花の、ガクの塊を少しだけ持ち上げ、地中に伸びているだろう根を移植ごてと根切り鋸で掘り出そうとしたら、土の上に蝸牛の殻だけが残っていた。静かな聖堂のように。

2017年5月13日土曜日

(覆された宝石)五月の冠

 五月。鬱蒼と茂った(と、形容してもいいほどに育った)木香薔薇が次々と開いていくので、爽やかな甘さが庭に揺蕩っている。白い木香薔薇なので、空気の澄んだ時間に、特によく香る気がする。植えた二年目までは伸びるばかりで花をつけなかったが、さらに次の年から濃い緑の茂みに星が灯ったように咲き始めた。今では満天の星空と言ってもいい。花は今しかないのだと湧いて咲きこぼれていく。朝、ああ次はこれが開くのだなと思っていた蕾は、夕、もう既に中心を黒ずませている。それが本当に朝見かけた蕾だったら、ではあるけれど。やわらかい残り香の中でいつも、わたしは木香薔薇の時に追いつけないままだ。

 今日は過去にわたしが想像した「未来のとある日」でもあり、未来のわたしが思い出している「とある過去の日」でもある。こころだけが軽々と、時を超越して未来と過去を行き来してしまう。じゅうねんを生き延びて次のじゅうねんへと、区切ってみたその日のことを、わたしはもう覚えていない。どれも同じように、輝きに溢れた重くだるい五月だったし、これからもそうだろう。五月は読書は絶対にはかどらないし、はかどらなくてもいいと思っている。そして今ちょうどよい本を借りていて、ただぼんやりとした重い時の流れの中で文字を追いかけている。クロウリーの『リトル、ビッグ』はいつまでも読み続けていられる、小さな魔法の大きな物語だ。

 冬の終わり、路肩に雪が残っていた時にグレイッシュだった風は、とうとう透明になった。草むらを抜ける五月の風は細い糸のようになって、わたしを季節に縫い止める。
 (覆された宝石)のように輝く光は全てのいきものへの贈り物、毎日が戴冠式のようだ。華やかで美しく、騒がしいのに厳か。本当はいないのに、どこかにはいる誰かの大きな手から、見えない季節の冠をわたしもかぶせられているのだろうか。

滅びの王国

『すえっこOちゃん』という本を借りた。Oちゃんのほんとうの名前はオフェリアだけど、いつもOちゃんと呼ばれている。スウェーデンのある町に住んでいる七人きょうだいの末っ子で今は五歳。年上のきょうだいがいるのでおませさんだそう。奔放ではちゃめちゃだけれど、OちゃんにはOちゃんの理屈がし...