2010年9月1日水曜日

八月の読書まとめ

いつか読んだ本の記憶
2010年08月
アイテム数:8
乳と卵
川上 未映子
読了日:08月02日

ノーサンガー・アビー (ちくま文庫)
ジェイン オースティン
読了日:08月03日

ベアト・アンジェリコの翼あるもの
アントニオ タブッキ
読了日:08月06日

首鳴り姫
岡崎 祥久
読了日:08月18日

図書室からはじまる愛
パドマ ヴェンカトラマン
読了日:08月21日

高慢と偏見とゾンビ(二見文庫 ザ・ミステリ・コレクション)
ジェイン・オースティン,セス・グレアム=スミス
読了日:08月24日

ニューヨークに舞い降りた妖精たち
マーティン ミラー
読了日:08月27日

powered by ブクログ



八月に読んだ本の中で一番笑ったのはやっぱり『高慢と偏見とゾンビ』だろう。外国の、特に英米ヨーロッパ圏の人の、東洋的なイメージはあまり変わらないのが面白い。ゾンビは期待していたより少なかった。
一番キュートなのは『ニューヨークに舞い降りた妖精たち』。妖精のゲロは人間にはいい香りだなんて、ねえ!

2010年8月28日土曜日

夏の終わりと大滝詠一

五年ほど前の夜、ずっとおおたきえいいちを聴いていた。たまたま行った楽器屋に、ちょうど並んでいたのでつい、買ってしまった。おおたきえいいちのことを何も知らないまま。

夜になる度にCDをセットしてごついヘッドフォンをつけ、明け方近くまで熱心に聴いていた。ねとつくかねとつかないかすれすれの、柔らかいストリング声が部屋の中ではいつも停滞していて、心地よかった。何か機械を通した夜の声は、昼間聞く声よりもすこし湿っている。実際に会って話すよりも、ずっとしっとりしていて、耳にきちんとフィットする。そういうことを知ったのはその頃だった。だから私はいつも電話を待っていた、薄暗い部屋で。洞窟のような部屋でヘッドフォンで聴きながら。
夜明けまで長電話して

受話器持つ手がしびれたね

耳もとに触れたささやきは今も忘れない 
私は空っぽだとずっと思っていた。誰にでも合わせたいと思っていたし、実際ある程度は合わせることも出来ていると思っていた。人の趣味によって自分の趣味を少しずらすだけ。ずらしたところにそれを置くだけ。そんなに難しく考える事はなかった。借りられる物は借りて、ひとつずつ読み、聴き、観続けていたら、少しずつではあっても自分の趣味との境目を埋められると思っていたし、埋めようともした。だから、私は完全ではないにしろある程度は空洞でいられる。少なくともその、私ではない別の人がいる間は。

けれど、段々そんなことをしている自分を理解し辛くなってしまう。別に自分のことなんて自分が一番知っているんだから、理解する必要なぞないと今ではまあ、納得はしているのだけれども、その当時の私にとっては、それーー自分をきちんと理解して律していることーーは一大事だったのだ。
もうあなたの表情の輪郭もうすれて

ぼくはぼくの岸辺で生きて行くだけ…それだけ…
まさか、魂がないのか?だから空っぽに感じているのか? 短絡的な私はすぐにそういう結論に行き着いてしまう。私はいつも魂を探していた。私の身体に宿るのは魂のうてなでしかないと思っていたので、本当の魂が欲しかった。SFの世界では機械たちが魂が無いことに気がつき、やがて憧れるように、私も本当の魂に憧れていた。

かけてくる電話の声の主こそ、私の魂のうてなにきちんと鎮座出来る魂だと思っていた。そう思いたかったから、思い込んでしまった。声の主の魂は、声の主の魂のうてなにきちんと収まっていたというのに、それを気付かない振りをしていた。

人が夜に眠って夢を見るように、私は夜じゅう起きて、夢を見ていた。おおたきえいいちを聴きながら、いつかこの空っぽのうてなに、きちんと魂が置かれる夢を見ていた。ほんとうのたましいのゆめは、脆く果無く虚しさが混じる。それでもその夢は幸せだった。
もう遠すぎて何も映らない…
A LONG VACATION』 大滝詠一

2010年8月15日日曜日

方舟のゆくえ

私は私を信用していない。迂闊には信用出来ない。私が怖いのはいつも私だ。他人ではなくて自分の中にある自分が怖い。考えている事と行動が、時折ちぐはぐになる。街頭の人形芝居で必死に物語を進めようとしているのに、下手くそな人形遣いがどうやっても糸と人形をもみくちゃにしてしまうような芝居だ。可笑しいのに笑っていられずにいたたまれなくなるお芝居を、じっと一人で見せられているような、演じているような、もう見たくもないし演じたくもないのに、やめようとするほど焦りだけが先走って、ことん、と倒れてしまうような、そんな芝居を毎日している。不毛だけれど、それをしなければ筋肉がこわばって固まっていきそうだから、そうするしか、方法を見つけられない。
 
私の毎日は、サーカスのようなものだ。時折ずれはするが決めた時間に始まり、なるべく決めた時間に終える。少々のアクシデントは愉快さに変えて、自分も子どもも誤摩化しながら終える。拍手喝采もなくヤジも飛ばないけれど、団長でもあり猛獣使いでもありピエロでもある私は、きっちりと毎回始まらせ終えなくてはならない。観客でもある私は、毎回律儀にそれを見なければならない。

毎度毎度、踏み外しそうな白い細いロープを渡っているようで、いっそ渡り終えずに落ちてしまいたいと思う。しかしその綱には足首とを繋ぐ丈夫なリングがあって、落ちようにも落ちられない。案外その綱は短いかもしれないのだけれど、暗闇の中ではどこまで伸びているのかもわからない。それをそろそろとつま先で探り、土踏まず辺りにロープが来るように歩き続けるしか道はないのだ。

ずっとバーを握っていると、どうして握っているのか、握らなくてはならない理由があったのか、手の緊張感と一緒に疑問も高まっていく。綱を渡る為に歩いているのか、ゴールに到達したくて歩いているのか、だんだんそれも暗闇に吸い込まれる。辿り着かないはずはないとわかっていても、足下だけにスポットライトがあたっている綱を渡っていると、もう落ちてもいいんじゃないかと思う。けれど別の私である団長はそれを許さない。自分で見ていてヒヤヒヤする。ヒヤヒヤしているのに手出しが出来ない。もう見るのもやめたいのに、やめられない。

毎日が綱渡り。だから日に一度か二度は、こんな生きにくい世の中なんか爆発してしまえと思う。けれども子どもが純粋にただ生きている事を思うと、くそったれ!と思いながらも爆発はして欲しくなくて、結局のところまたそのサーカスの準備も撤収もいそいそしてしまうのだ。ここから旅立てる方舟の夢を見ながら。明日も明後日も明々後日も、世界は続く、はず。私の方舟はまだ完成していない。

2010年8月8日日曜日

7月の読書まとめ

いつか読んだ本の記憶
2010年07月
アイテム数:11
二十歳だった頃
岩瀬 成子
読了日:07月02日

少女外道
皆川 博子
読了日:07月07日

受胎告知
矢川 澄子
読了日:07月10日

ボンベイの不思議なアパート
ロヒントン ミストリー
読了日:07月10日

ジェイン・オースティンの読書会
カレン・ジョイ ファウラー
読了日:07月13日

サフラン・キッチン (新潮クレスト・ブックス)
ヤスミン・クラウザー
読了日:07月15日

サラの鍵 (新潮クレスト・ブックス)
タチアナ・ド ロネ
読了日:07月26日

夜明け前のセレスティーノ (文学の冒険シリーズ)
レイナルド アレナス
読了日:07月27日

乙女の密告
赤染 晶子
読了日:07月27日

授乳 (講談社文庫)
村田 沙耶香
読了日:07月29日

サーカス団長の娘
ヨースタイン ゴルデル
読了日:07月31日

powered by ブクログ

2010年7月21日水曜日

ここではない、どこか遠くの、

 梅雨が明けてからすっかり夏の夜だ。窓を開けて風を入れているので、エアコンのない部屋でもじゅうぶんに涼しい。しなを作った夜風が吹いていて、マコンドに降った雨のようにずっと続きそうな雨もすっかり止んでいて、十年前から晴れしかなかったような日の夜の風が入ってくる。蛙の声はもう聞こえなくて虫の声がしていて。恨み抜いた地元の、懐かしい夏の夜だ。

 隙あらば「私のほんとうの両親は外国に住んでいて、仕方なく私をいまの父母に託したのだ」「だからいつか私は迎えが来る」「その人は気高く美しい」などと考える、どこにでもいるつまらない子どもだった。自分の凡庸さに嫌気が差したのは、だから随分早かった。特別な何かを妄想することはあったが、特別な何かになれるとは思えなかった。ただただ「ほんとうの私」でいたかった。年をじゅんじゅんに重ねていけば、ちゃんとした大人になるのだと。そうして大人になった時にはきっと外国に住むつもりでいた。横には優しい旦那様がいて、私はハーフの子どもをたくさん産んで、広くはなくても気持ちのよいアパルトマンで。

 とにかく地元は出たかった。出れば世界が変わるともずっと無邪気に思っていた。高校生になってもなりたいのは「大人」であり、「ほんとうの自分」だった。それがずっと小さい頃からの憧れだった。どうして私はここに立っているのだろう、どうして私は別の誰かではなくて私なのだろう、もしかして私はずっと夢を見ているのかもしれない……。なんとか受かった大学に通うようになっても、当り前だが変わらなかった。変わるはずがなかった。環境をどれだけ変えても、阿呆のような情熱で一心に「ほんとうの私」を探しているのでは、変わる事も出来なかった。変わる事が出来なかったら、「ほんとうの私」はいなかったという事になる。

 ===========

 このところずっと、生まれた国とは全く違う言語で書かれている物語ばかりを読んでいる。特に英語圏で英語を第二の言語として使っている作家が書く、翻訳の物語ばかりを。気になっているのはインドやイラン系の作家達で好んでそれらを借りたりしながら読んでいる。当り前なのだけれど、彼彼女たちの教育水準は高い。それはこの際どうでもいい。 
 面白い事に、彼彼女らは母国に戻っても、「もう」アメリカ人或いはイギリス人 と見られ、新たに生活している国では「まだ」インド人或いはイラン人というように、どちらに行っても異邦人だということ。どちらの国にいても周りが「もう」「まだ」染まらせてくれないのだ。
 彼彼女らは今いる国でしか、多分もう生きていかないつもりでいると思う。著者達の持つ「二つの国に存在」し、また「二つの国に存在していない」という危うさが気に入っている。特に彼彼女らの心がいつも現在と過去に同時に出現していて、いつもどこかを目指している感じがあるように思うからだ。
 そういう遠い目をしている物語に、私がずっと昔から探しているような「どこでもない場所への憧れ」と合流出来そうな場所があるんじゃないかと思っている。

 ===========

 私は今、出たくて仕方がなかった地元に住んでいる。結局、人は一度、生まれ育った場所に戻るのだろうか。そこで暮すにせよ暮さないにせよ、そうやって過去の自分と現在の自分とを同時に存在させて、どちらかを選ぶしかないのだろうか。沐浴した赤子を抱くように許した過去をすべて胸にかき抱き、慈しむしかないのだろうか。

 ここではないどこかはいつまでも探し続けると思う。だからこそ私はどこに行っても、借りた椅子を汚さないように座っているのだろう。座っていいのかよくないのか、周りをじろじろと眺めながら端っこの方にお尻をちょんと乗せるように。そうではなくて、ほんものの、ほんとうの私だけの椅子のような場所を探し続けると思う。許せるほど過去は美しくなく、愛せるほど私はものわかりがよくはない。ずっと昔から憧れ続けた場所に、私の椅子があるのか、私はそれを確かめなければならない。ここではないどこか遠くが、ほんとうに遠くにあるのか、それとも私のすぐ側にあるのかを、私は探し続けるのだ。支流が一本に繋がる場所を。見つかった時に物語は生まれるか、それとも永遠に眠るか。どちらにしても安らぎの場所だ。

2010年7月10日土曜日

お久しぶりね

子どもが昼寝をしている間は、私の自由時間だ。好きな事だけをする。好きではないがしなくてはならない事をする。好き嫌い抜きでするべき事をする。熱を少しずつ放射しながら眠る子どもの傍を離れて、あれこれする。そう言う時は完全に一人で、自分の身が二つに分かれてから味わう事が少なくなった、「かんぺきなひとり」になる。

まだ二歳手前な所為か、起きた時に機嫌がいいということは少ない。大抵、家の中の離れた場所でなにやかやとしている時に呼ばれる。「起きたー!」などというように。

いそいそと私は子どもの傍にすっ飛んでいく。そういう時に子どもの顔をまじまじと見ると、なんだか眠る前とは少し別人のような顔をしている。だから私はいつも、「お久しぶりねえ」と声をかけてしまうのだ。

子どもにとって眠りは、多分起きている世界とは断絶されている。ぽんと眠りの世界に投げ込まれ、そしてまたぽんと起きている世界に投げ込まれるように。うっとりとけれど乱暴な振り落とされ方で眠る。寝かしつけていると自身の限界まで目を開け続け、それからまぶたを可能な限り制御しようとしているけれども、いつも呆気なく、眠っていく。

起きた時にかのじょの世界はいつも一変している。見覚えのあるいつもの部屋、馴染みのある絵本、ちらかしたままのままごと道具。けれど同じ部屋の中で時間だけが確実に動き、部屋の中を攫っていくのだ。その度にかのじょはいちいち律儀に驚いているようにも見える。

そんなわけで私は「お久しぶりね」とかのじょを迎えるのだ。たった一人で眠りの国へ行ってたのね。お帰り、と。やがてその寝起きの「お久しぶりね」は学校からの帰宅を迎える時のことばになるかもしれないが、それまでは、母親ぶって寝起きを迎えようと思う。

6月の読書メーターまとめ

 2010年6月の読書メーター
読んだ本の数:9冊
読んだページ数:2126ページ

■おんな作家読本 明治生まれ篇
明治生まれの「おんな」の作家を取り上げた、うわさ話みたいに密やかに、慎ましやかな一冊。写真が少ないのが惜しい。かのじょ達の「お気に入り」や「遺品」などの写真もあり、そのそれぞれが大変にかあいらしい。一人の少女であり女であり、作家だったかのじょ達の日常を覗き見しているようで、楽しい。いつも本棚に置いて、「次は誰を読もう」と期待に胸を膨らませるためのチュウインガムになりそうだ。続刊も期待。
読了日:06月26日 著者:市川 慎子
おんな作家読本 明治生まれ篇


■柘榴のスープ
遠くアイルランドの地で「バビロン・カフェ」を始めたイラン人の三姉妹。混じり合う野菜や肉、ハーブの香りを想像しながら読んだ。時折無機物を擬人化させているところなどの表現が存外心地いい。耳をすませばとろとろと鍋の下でゆれる火の音やサモワールから注がれる湯が上げる蒸気の音まで聞こえてきそうだ。アイルランドの小さな田舎町ではさぞかしエキゾチックに映ったであろう三人が次第に食べ物を介しながら人々に迎え入れられる所はとても好き。イランでの三姉妹にまつわる過去は忌まわしいものもあったが清々しい物語だった。
読了日:06月21日 著者:マーシャ メヘラーン
柘榴のスープ


■クローディアの秘密・ほんとうはひとつの話 (カニグズバーグ作品集 1)
再(……)読。初めて読んだのは大学生の頃。「クローディアの秘密」もそうだが1960年代に出版されていただなんて、子どもだった人たち(そして子ども時代にそれらに触れた人たち)何と羨ましいことだろう!ミステリー仕掛けがある所もやはり良いし少女の成長譚と読める所も良い。「ほんとうはひとつの話」こちらは短編が四本。どれも子どもが成長しても持ち続ける秘密についての物語だ。
読了日:06月18日 著者:E.L. カニグズバーグ
クローディアの秘密・ほんとうはひとつの話 (カニグズバーグ作品集 1)


■東京島
人間が持つ嫌な部分をオーバーに引き出すのがとにかく上手い桐野夏生。現実の社会の中での物語だと彼女の特有の筆致で閉塞感がつきまとうのだが、逆に舞台が無人島であるせいでより開放的でもあった。なりふり構わず「生」に執着してつかみ取る(無人島で蜥蜴や蛇を捕まえるような)姿は、むき出しの人間のどん欲さが誇張してあるようでコミカルでもあった。
読了日:06月15日 著者:桐野 夏生
東京島

■街の座標
読了日:06月14日 著者:清水 博子
街の座標


■夜と灯りと (新潮クレスト・ブックス)
この乾いた寂寥感はなんなのだろう。そして物語の底辺を流れる虚しさは。ガリガリと身体を削られるようだ。登場人物たちの多くは乱暴で自堕落だけれど、それでもその傍にいつも、小さくても灯りがあってくればいい。自分の姿を見失わないように。
読了日:06月05日 著者:クレメンス マイヤー
夜と灯りと (新潮クレスト・ブックス)

■プレーンソング (中公文庫)
再……読。「特に何か目立った出来事が起こらない日常」が淡々と描かれているところが特別に好きだ。それとちょこちょこと出てくる競馬についても。競馬好きは大きなレースで季節を知る。体内時計のようなもので、それを主人公がちょくちょく目安にしているところなど。まるで流れている川のような、いつから始まっていつ終わっているかも川にとってはどちらでもいいように、穏やかに陽にきらめく水面を見て一日をすごすような物語だと思う。日々は、日々でありそれ以上のものではないのだな。
読了日:06月02日 著者:保坂 和志
プレーンソング (中公文庫)


■薔薇忌 (集英社文庫)
読了日:06月02日 著者:皆川 博子
薔薇忌 (集英社文庫)
薔薇忌の装丁はピンク地に緑色の花の絵なので持っているだけで気分が良い。

▼読書メーター
http://book.akahoshitakuya.com/

本のタイトルはアマゾンに飛びます。

滅びの王国

『すえっこOちゃん』という本を借りた。Oちゃんのほんとうの名前はオフェリアだけど、いつもOちゃんと呼ばれている。スウェーデンのある町に住んでいる七人きょうだいの末っ子で今は五歳。年上のきょうだいがいるのでおませさんだそう。奔放ではちゃめちゃだけれど、OちゃんにはOちゃんの理屈がし...