十二月の終わり、全くの終わりの日に読み終わった『ノエルカ』、とても良かった!それと『アドヴェント・カレンダー』。クリスマスの日を、キリスト教圏の人たちが大事にしていることが、とてもよく分る。『抱擁、あるいはライスには塩を』は、いずれまた別のエントリで触れたい。私の中の江國香織作品で久しぶりに良い読後感だった(彼女の新刊を買ったのは久しぶりのこと)。血の繋がりと言う不可思議ででもおかしみのある物語だ。
2011年1月11日火曜日
2010年12月31日金曜日
扉にて
ミレイの絵に、「はじめての説教」と「二度目の説教」がある。初めて教会の信徒席に座ることを許された、赤いコートの幼女が、厳粛な面持ち——それは彼女が持ちうる限りの厳粛さで——お説教を聞いている絵と、二度目の教会でのお説教で、ふと張りつめていた緊張を緩めて、身体をくにゃりと曲げて転寝している、二枚の絵。
去年の暮れに、カテイノジジョウにかたがつき、今年は新しく始めるのだと思いながら、月日を過ごした。嘘のない日々を。笑われるとしても、自分を卑下することはなく、微笑み返すことの出来る日々を。その時には既に涙を失っていたので、随分気楽だった。もう泣く必要もないと言う事は、自己憐憫に浸りきって絞り出す哀しみもないはずだから、と(とは言え、十月に映画館で二時間ほど泣いたので、完璧に涙を失ったわけではなかったのだが)。それ以外には一切涙も滲まない生活をしているので、実際どうかは、まだよくわからないけれど、私は随分健康になったように思う。頭が健康でいられるというのは、とてもよい。
今年は、私の「はじめての説教」だった。真っ直ぐと前だけを見て、声の聞こえる方へ耳を傾け、口を結び、全てをただ受け入れる、受け流すのではなく。それはとても気持ちのよいことで、今でもまだ少し、ぽうっとしている。初めての説教を聞いた後の彼女が、軽い興奮と安堵と、そして祝福に包まれているように。
来年、と言ってももうあと僅かな時間しか今年は残っていないけれど、来年もまた同じようでありたい。いつでも初めてであるように、受け入れる余地を持ちながら、その光の道を歩いていけるように、謙虚でありたい。
そしてまた、あなたたちに会いたい。
2010年12月28日火曜日
世界と私の二人組
前提が必要だとすれば、山崎ナオコーラとは同世代である、という事、ほんの少し饒舌に、作家の言いたい事を直接主人公が代弁しているような部分が、物語の中で見られるという事。所謂ロストジェネレーション世代特有の、感情の揺られ方というか醒めかけた視線というか、そういうのは同世代たちが広い意味で共有していると思う。彼女の筆の運び方は、じっとりウェット過ぎもしないし、過剰に元気でもない。何かを熱く燃え上がらせる事よりも、自分の内側にまず、ぽつぽつと灯を点している方が、大事。
『この世は二人組ではできあがらない』を読み終わった時に思ったのが、人と別れた時って信じられないほどの開放感を味わったっけ、という事だった。二人或いはそれ以上の、恋人または友人と過ごす時間が決して嫌いなわけじゃないのだが、「じゃあね、またね」と手を振り合った瞬間に、ゆるゆるとした何かで巻かれていたのが解ける、あの感覚。巻きついた何かは、トイレットペーパーのようにすぐ溶けるのだけれど、同じ空間同じ時間を過ごす間は溶かせない。ぺたりと濡れて身体中に貼り付いている。
でもその巻きついたものの残りをひっぱりながら帰宅するのは、例えば好きな人の吸っていた煙草の煙に燻されたような感じで、心地よかったりもする。ふと着ていた服に移っていて、それに後から気がつくというところが、心地よいのだ。存在しているのに不在。会わない時間の方が、会っている間よりもより濃く相手を思うことが出来るから、その不在がより愛おしい。なので会っている最中ももちろん素晴らしい時間なのだけれど、その後余韻に浸りながら帰り道を歩いている時間も、素晴らしく気分が良い。
社会に属する大抵の女性と男性は、ある程度の年齢に達したら結婚して新しい、ごく小さい家庭を持つべきだと言われていた時代(経済的な事はさておき、特に昭和の時代の話)に比べると、社会というよりも、世界の中で生きるということにおいては、今の時代の方が、温度の調節が出来るプールで泳いでいるような気がしてくる。結婚していない事、恋人がいない事を、正当化しても負け惜しみには聞こえにくくなった。私の母と同世代の女性たちは、経済観念的に自由が許され始めた頃だったけれど、学歴よりも、結婚している/していない事が、社会の中にいて振り分ける時に使われる物差しでもあった。
誰かと生きるというのではなく、世界の中で生きるという緩い広がりというのも、良いと思う。二人組、詰まる所夫婦、恋人同士、親友同士でのみ構成される世界は、色鮮やかで美しい。けれど熱帯植物の温室のように息苦しさもある。それは多分、向きと不向きであって、しないからおかしいというものでもない。
一人でいる、と言ってもあくまで「みんなの中で」という前提があっての事だ。山崎ナオコーラという人は世界の流れの中できちんと同じ水であろうとしているようで、良いなと思う。ちゃんと流れを探そうとしているというところも。
2010年12月12日日曜日
パズル
世界は美しく完成される為にあるパズルだったはずだった。箱を見ながら作りさえすれば、美しく完成するはずであって、完成しないのはまだ私が生きているからである。作成途中の私のパズルが美しく見えないのは私の尻が青い所為であって、世界の所為ではない。
どのくらいまで出来上がったか、というのを俯瞰してみる事が出来ないでいる。近づいてピースをはめ込んでいるからではなく、寧ろモザイク模様のように出来上がっている場所と場所とが遠過ぎて、また繋がりがあるようには思えなくて、どうはめ込んでいけばいいのか迷っている。過去と現在の、現在と未来の、過去と未来の、繋がり方が滅茶苦茶なのだ。
それぞれの「世界のパズル」を完成させる為にはこちら側も、「角が潰れているから」「見つからないピースがあるから」「不器用だし完成図を想像出来ないから」と思っていては完成しない。とは言っても相性もあるし、難度が技量よりも高かったりすると、やっぱり難しい。幼児が苛立って積み木を崩してしまうように、わーっとぐしゃぐしゃにしたくなる。そしてそういう場面に私は頻繁に立っている。
必ず完成するパズルじゃないんだ、とは知らなかった。知っていたからといって上手く繋ぎ合わせていけたかというと、そうではないのだけれど、それなりに繋がっていくものだと思っていたからだ。いざ開けてみても、ピースが全部揃っているわけではなかった。紛れ込んでいたり角が潰れていたり、そもそも入っていなかったり。それでも大抵の場合はそこに欠けたピースがあるとして、繋げられたはずなのだ。「なんだかよくわからないけれど、同じ色っぽいから多分ここだ」とねじ込んだピースが、私のパズルには沢山あるはずだ。その所為で、どこかしかが歪んでいたり、俯瞰した時にどうにもおかしい繋がり方をした部分があったり、と。それはそれで面白くはあるだろう。結局過去は肯定する為にしか存在出来ない。否定をしてしまったら、現在の自分はどこに消えるのだろう。箱の中だろうか?
2010年12月1日水曜日
十一月の読書まとめ
2010年11月4日木曜日
はてしないものがたり
物語のように生きたかった。本を開き物語の扉を開けるように始まり、そしてまた本を閉じる時のようにゆったりとした気分でいのちを終える。私という物語はありふれてはいるが、それもそれで良し、世界という図書館に最期に収めてもらえたら、と。私は世界に期待しすぎている。
浮ついた生き方をしてきたので、どういうことが地に根を張った生き方なのかよくわからない。私は私として生きるのが初めてなので、何もかもが経験不足で周りの人達のように「こういう場合にはこうすればよい」「こういう場面になった時にはこう躱せばよい」という事が今ひとつわからない。だから毎回体当たりをして試すようにばかりして、ドアをこじ開けていたようにも思う。「一つ一つ、人よりも試さなければわからないのよ」を錦の御旗にして。甲冑を着込んで大きな音を立てて歩き、周りも構わず「酒はないのか」と大声を張り上げる、無礼な兵士みたい。人一倍努力を嫌い、人一倍名誉を欲しがる、嫌ったらしい兵士みたい。
四半世紀を生きて過ごした頃、もう物語のようには生きられない、とわかった。わかってしまった。うすうすは気がついていたけれど、それが形になるのが怖かった。だから先延ばしにし続けて来た。会う人たちには享楽ぶって、無頼ぶってばかりいるしか、もう出来なかった。けれど生きるという事は生活する事でもあった。私に生活は向かない、などと精神だけ貴族ぶってもいられなくなってしまった。もちろん本物の貴族ではないので猿真似でしかないのだが。今でも精神だけでも貴族ぶりたいとは思う。朝食室でスウプをひと匙吸って「あ……」と、か細く叫んでみたい。
でももう物語のようには生きられない。子どもがいる。子どもは生きて存在している。身勝手に終わらせてしまえるほど、私は身軽ではなくなってしまった。どうして今ここで本を閉じられないんだろう、と何度思った事だろう。あの日に閉じてしまいたかった。閉じるつもりだったのに結局閉じられないまま、私はまた明日も私という死ぬまで終わらない物語を書き続け、読み続ける。神が私を生から分つ日まで。
滅びの王国
『すえっこOちゃん』という本を借りた。Oちゃんのほんとうの名前はオフェリアだけど、いつもOちゃんと呼ばれている。スウェーデンのある町に住んでいる七人きょうだいの末っ子で今は五歳。年上のきょうだいがいるのでおませさんだそう。奔放ではちゃめちゃだけれど、OちゃんにはOちゃんの理屈がし...
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『すえっこOちゃん』という本を借りた。Oちゃんのほんとうの名前はオフェリアだけど、いつもOちゃんと呼ばれている。スウェーデンのある町に住んでいる七人きょうだいの末っ子で今は五歳。年上のきょうだいがいるのでおませさんだそう。奔放ではちゃめちゃだけれど、OちゃんにはOちゃんの理屈がし...
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本があるところは、すこし埃っぽい匂いがする。それはとても甘く、柔らかく、同時に香ばしい。冷たいが同時に温かで、さざ波のように声が聞こえる。誰かの。遠い過去からの。近い未来からの。 本があるというその点においては、私にとっては懐かしく親しい場所なのだ。そこが初めての場所だとし...
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まだわたしが京都市に住んでいた頃、煙草を吸わない日はほとんどなかった。ちょうど二つ目の職場に勤めだした頃で、なんとなく吸えるんだろうなとは、吸う前から知っていたようにも思う。滑らかに煙は肺のあたりへ落ち、主に口腔から吐き出せた。秋だったと思う。けれど初めてにどの煙草を選んだか...

