2011年5月29日日曜日

小鳥

 喉の奥で小鳥を閉じこめているような、そしてその喉で小鳥が飛び立とうともがいているような、そういう息苦しさ。行き苦しさ?生き苦しさ。喋っていても聞こえてくるのは、私の声なのに、私の声ではなく。瓶の内側から聞こえてくるような、くぐもっていて妙に丸みがかっていて、時折それが鋭く聞こえることもある。蓋が外れて瓶の口から漏れ出てきたような。

 どちらが私の声かは知らない。どちらとも私の声だから、私以外の人には、きっと分らない。でも、私の声って一体なんだろう?

 喉の奥の小鳥はいつか飛び立つ?私を置いて行ってしまう?行かないで!私の喉が潰れてしまってもいい、ここに居て、いつまでももがいていて。小鳥の声が、私の声。小鳥を失ったら、私も声を失うだろう。

2011年5月23日月曜日

「マルガリタはラテン語で真珠の事ですよ」と神父さまは仰った。

 私の洗礼名は「コルトナのマルガリタ」で、乙女殉教者の聖マルガリタとは別の女性だ。わざわざそのメジャーな聖人の名前を選ばなかったのは、その頃、私は“幸せな”妊婦になる事はないだろうと思っていたからだ(乙女殉教者マルガリタは妊婦の守護者でもある)。実際幸せな妊婦にはなれなかった。それを悔いているわけではない。私がその時、神様を忘れた事を悔いてはいるが。もう一人のマルガリタは放蕩者、娼婦だった。幼いうちに実母と死に別れ、実家を飛び出るまでは継母に虐げられる。城主の妾として数年過ごし、その間に子どもも産んでいる。城主が殺されると再び実家に戻るが実父からも継母からも酷く拒否された。彼女が最後に助けを求めたのはコルトナの町の修道院で、そこで初めて受け入れられ、神に仕えともに生きる悦びを知る……。

 何処ででも、泥水を舐めても生きていけるんじゃないかと思っていた。実際はでも、何に受け入れられたいのかも知らないまま、日々ふらふらと生きていただけ。高潔なふりをしていただけ。いい加減、何処に行っても「ここじゃない」、「これは間違っている!」と思いたくなかった。「間違っている」というのは、私が決して幸せになれない事ではなくて、私が、「間違っている」と思う事が間違っている、という事。ブラッドベリやカーヴァーのようには辻褄が合っていないという事。

 途切れ途切れに続けていた聖書の勉強に本腰を入れたのは、トウキョウへ上京してからの事だ。練馬区と杉並区と中野区が入り乱れる場所にあったその部屋は、下井草教会が随分近かった。千川通りをひょいと超え、左手側にコンビニエンスストア、右手側に畑を見ながら住宅地を進む。右に曲がると、ミントグリーンの尖塔、白い壁の教会が現れる。何とかなりそうなギリギリの家賃で、仲介業者からたった一軒だけ提示されたそのアパートの傍に、教会があるとは!きっとここが、私の探していた真珠の門だ。他の店を回る事もせずに、ほとんど即決で金を下ろしてその部屋を借りた。引越が落ち着くとすぐに教会へ出向いた。洗礼を、今度こそ受けると決めていた。

 降誕祭が近づくと、毎週水曜日の午後の教理問答もいよいよ終わり、洗礼式の為の代母も決まった。洗礼式の前に、数々の後悔も、希望の為に知った絶望もここで洗う為に、私の、もう一つの名前を決める。私は成人洗礼になるから、自分で選び自分で決めた。それが「マルガリタ」だった。長身で、淡いブルーグレイの瞳をした東欧出身の神父さまは、それを聞いて「とても良い名前を選びました。マルガリタはラテン語で真珠の事ですよ」と仰った。ミルク色に輝く真珠の核は、真珠層を持った貝には異物でしかない。けれど真珠層が幾重にも包み、元の異物ではなく真珠になりますね。そして私たちは真珠の門を通って天国へ行きます。後悔していることがある、哀しみを忘れられない、と初めに私に言ったあなたは、その名前を選びました、と。

2011年5月22日日曜日

基準の鳥

 エミリ・ディキンソンの歌の基準は、こまどり……。
 五月もるうるうと勢いづいている。晴れた日は草木が発する甘ったるい若葉の匂いで、息が詰まるほど。湿度は温度を友にして上昇し、二日後に大抵雨となって落下する。海に落下した彼らはまた大気に紛れ、草木に宿る。終わりのない永遠の運動だ。暑いだの蒸すだのと不平を、言うほどの事でもない、永遠に比べれば何だって瑣末な出来事。

 山も近く海も近い場所にある実家で暮していると、鳥たちが時間の基準になる。夜明け前に時鳥、朝いちばんは、燕。その次に烏と雀。明けきってしまえば、イソヒヨドリ、ヒヨドリ、セグロセキレイ、鳶。川まで出れば、そういえば鷺がいる。漁連の近くだと鴎、鳶。日暮れ前にまた燕と雀、そして夜。

 何を基準に生きていればいいのか、分らなくなった。鳥たちのように基準の歌を持たない私は、一日のうちにめまぐるしく変わる曖昧な基準の中で、息が上がってしまいそうだ。ああ、歌を忘れた金糸雀だったら、海に出て、忘れた歌も取り戻せるものを。

2011年4月10日日曜日

 

 愛しているものは、私が触れられないもの、そして永遠であるもの。それ以外のものは、たぶんたいして愛してはいないはずだ。それは愛していると思い込んでいるだけ、ただの盲信、見栄、執着。手ぶらでいるべきよ。転んだ時にすぐに立ち上がれるように。旅の準備は軽ければ軽いほどいい。もしも帰ってくるつもりなら。

2011年3月30日水曜日

東の空のひばり

 朝、書類を届けに別の棟へ移動中、鈴が笑い転げるような鳴き声を聴いた。ひばり。黄砂混じりの埃っぽい空の中で、孕んだ春ごと転げ回っている、軽く高い鳴き声。ひばり、ひばり。ひばりを見上げながら書類を持ち直し、人々の働く場所へ急ぐ。もしも書類を放り上げて走り出したら、どんなにか気持ちのいい事だろう!靴も脱いでアスファルトをただ駆けていけたなら、海に抱きとめられただろう。私が働いている場所は、海の、本当にすぐ傍だ。日によって、時間によって、海からの風が吹く。海からの風は甘い潮の匂いがしていて、その匂いとともに私は育ち、いずれ死ぬ。どうしてそれを早送りしてはいけない? 

 時折、私たち——私と、娘の事だ——の繋いでいる見えないへその緒は、妊娠していた時、産み終えた時、元は一人だった身体を分けた一本の管を切られた時と比べると、どんどん太くなっていく。今では細いしめ縄ほどもあるような、そんな気がしてしまう。愛しているかと聞かれたら、愛していると答える事は出来る。手放せるかと問われたら、手放したくはないと答える事も出来る。でもその愛は、執着なのか本能なのか、保身の為なのかは、わからない。事務所の中に居る間は、あまり、思い出す事もない。保育所でそれなりに上手くやってはいるらしい。ひばりのように甲高く笑い転げ、うぐいすのようにいくらでも歌を歌う私の娘。

 本当のものが欲しかった私は、随分苦心して本当のものを手にした、と子どもを腹から押し出した時に思ったものだった。まさしく本物の命の塊。柔らか過ぎて玉子を抱くようにしか抱けなかった。私という殻を飛び出した娘は、転がる鈴の様に騒ぎながら歌いながら、身体を新しい肉で作り出している。遠く離れていく感じがする。一緒の身体に在った時でも淋しかったのに、既に生まれる前から離れていたと言うのに、今さら。

 まるく飛ぶひばりは、まるで私の娘のようだった。空をもう一度見上げたら、屋上に止まったひばりはひとしきり歌を披露し終わり、せわしなく飛んでいった。私の視界から離れ、また別の世界へ。結局私は靴も脱がず走りもしないで、書類を届ける為にドアを開けた。あのひばりは二度と戻らない。行ってしまった鳥は、二度と同じ鳥ではない。別に淋しくはない。でもまた取り残されている気がしてしまう。身勝手にも。

2011年3月27日日曜日

「言葉を持たないものは、言葉に復讐される」

 やめ時が分らないまま続けていたツイッターを、やめた。あの場所に居ると引っ掻き傷を付けるのにも、引っ掻き傷を付けられるのにも、慣れてしまう。慣れていくであろう自分を俯瞰する事、そのものが気持ちが悪かった。だから、別に何か嫌な事をした、されたわけではなくて、なんでもない、たんじゅんに自分だけの問題なのだった。めんどくせえ奴。

 もともと、私は言葉を持たないのだった。言いたい事も別にない。伝えたい事ならなおさら、ない。別に言っても言わなくても、どうでもいいことしか、ツイートした事はなかった。情報も持たないし、言葉も使っていながら弄ぶだけで、持っていない。だから、今、「言葉に復讐」されている。持たない者が持ったつもりで天を目指せば、当然鑞の羽で舞い上がったイカロスのように、あわれ、墜ちていく。そして私は、落ち続けている。

 タイトルにした一文は、私がかつて好きだった人が描いた(書いた)ノートで見つけた。もう絶対大丈夫です、と頭突きをせん勢いで医者に詰め寄って認められた退院という解放後、戻った部屋にあったのは、リュックサックに無造作に詰め込まれた靴下とTシャツと、真新しいのに丸まったノート、赤いボールペン、くちゃくちゃと丸め込まれた綿の、カジュアルなジャケットだった。ジャケットのポケットの中に手を突っ込むと、砂粒とレシートがあった。レシートには海沿いの町の名前が印刷されていて、それと指先に乗った砂粒だけが、彼が海沿いの町に行った後、ここにはいないという「現場不在証明」になった。

 ぱりぱりと頁を捲っていくと、あの一文が目に入った。そうして、わかった。彼はまだ(それは私の願いだった)居るけれど、既にもう行き止りへ行ったのだ。彼は絵と詩を描く人だった。彼の大きな瞳は世間を斜めから見ていたように思っていたけれど、本当は、彼は、真っ正面から見ていたのだと思う。眩しさに顔を顰めながら、それでも一心に向かい合っていた。今になって、そう思う。ふらりと立ち寄った私の部屋で、無様な蛙のようにひっくりかえっていた(と思われる)私を見て、辟易しただろう。病院にはなんとか、連れて行ってくれたようだった。あまり体力のない人だったのに、酷な事をしてしまった。

 あれは、なまぬるい春。薄曇りの空の事をよく覚えている春のことだった。退院した後、彼と会うことは全くなかった。会えたとしても、相手は会わなかっただろう。仮に相手にその気があっても、周りは私をうまく、でも確実に押しとどめたはずだ。次に会えたときは、彼は写真の中だった。唯一救われたのは、飛行機に乗る為に一緒に鹿児島まで行った事を、何度も話していたと言ってくれた、彼の家族の言葉だった。自分を責める事ほど、容易い事はない。責められるだけ責め抜いても、それはどこまでも自己弁護と自己憐憫でしかない。情けなくて恥ずかしくて、それなのにいくつか周到に用意してあったものは全部没収されてしまっていた。ただまんじりともせず朝を迎え夜を超え、部屋の中は煙草の煙で真っ白で、私が外出するのは煙草とアルコールの為だけになったが、それさえも彼の不在にかこつけているようで、恥ずかしくて頭を掻きむしった。

 あの日から今までどうやって歩いたかはよくわからない。多分道幅の広い方だけを選んで歩いていたんだと思う。それは、確かな破綻へ繋がった。どれだけ時間が経ったとしても、忘れたくない事は、私にもある。今こそ私は復讐されなければならない。どのようにして復讐されるかは、言葉が知っている。私はただ言葉の決めた事を受け入れるだけだ。

2011年1月28日金曜日

司るもの

 嘔吐されたような散らばり方をした本、本、本。その中に私はいる。私は、本棚に対して無限を期待している。だから本棚に本を収納出来なくなると、どうして出来ないのか、しばし悩む。あちらを抜きこちらを詰めるとそちらはむりむりと押し出されるようになる。隙間を作るのは嫌いなので、パズルのように組み替える。しかし入らない。入らないのでその辺に積む。小さい塔が幾つも部屋の中に乱立し、その内私、あるいは子供が躓いて崩れる。そしてまた、積む。それを繰り返しているうちにだんだん、気がつく。ああ、本棚にはもう入らないんだな。

 引っ越し前夜——あれは大学を卒業する日——簡易な本棚からそのまま抜き出して段ボールに詰め込めば良いのに、詰められなくなって、本棚から全ての本を抜き出して、その真ん中に座って夜明けを待った。同じ事を二回、繰り返した。本のまっただ中にいる。それはそれで満足する事だった。手伝いにきてくれた人は唖然としていた。

 綺麗だった。本棚から吐き出された全ての本が、表紙を上に向けていて、鮮やかで。するすると撫でながらこれはあの本屋で買った本、これはどこの古本屋で見つけて小躍りした本、あれは、これは、これも……と思い出に耽るのは気持ちのよい事だった。思い出せる限りのそれらの思い出を、一晩という短い時間ではあったけれど、並べて虫干ししたようなものだ。出し切る、と言う事は良い意味でしかない。

 その本も、今は随分入れ替わった。離れていった本の行方はわからない。上手くすれば誰かの本棚に在るか、古本屋の本棚に、値段を付けられて並んでいるか。下手をすればもう別の紙に変わっているか、それとも灰になっているか。握り続けた本だけが残っている。どうやっても落とせない、身体につく最低限の肉のように、骨にぴたりとはり付いている(と思わなければ、やっていけない)。

 真夜中の本棚は呼吸する。それを知っているのは、その本棚を支配しているつもりの私だけ。心地よいことだ。司書にはなれなかったが、自分の本棚を持ち、その本棚を私の法則通りに管理している、という事は。私の要求で私は本棚から数冊本を抜く。そして私が読む。読み終わったら私が本を元に戻す。整頓する。

 私という図書室の司書は私。私の本棚の前で、私は何度も司書になる。

滅びの王国

『すえっこOちゃん』という本を借りた。Oちゃんのほんとうの名前はオフェリアだけど、いつもOちゃんと呼ばれている。スウェーデンのある町に住んでいる七人きょうだいの末っ子で今は五歳。年上のきょうだいがいるのでおませさんだそう。奔放ではちゃめちゃだけれど、OちゃんにはOちゃんの理屈がし...