少し前twitterにて呟いていたものを加筆しました。続きはまた近いうちに。
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ある年の12月24日、私はその頃よく遊んでいた、一つ年上の男の子と向かい合って座っていた。昼下がり、四条通のモスバーガーで。ふと彼が「どこか行こうか」 と呟いた。その日目を覚ましたのは正午頃、空っぽの冷蔵庫に背を向けて部屋を飛び出た先の四条通のモスバーガーで。彼はアイスティーをすすりながら呟いた。
「行こう、どっか行こう」私は即座に頷いた。私はいつも飽き飽きしていたのだ。この檻のような身体に囚われ続けてあと何年生きれば、私は本当の解放を知るのだろう、などと芝居がかって嘆いていたのだ。そのくせ臆病なものだから何処へも行く勇気はない。ひとところに留まりながらぶつくさと不満を吐く、精神的な老人だった。だから何処でもよかった。この爽やかに明るいモスバーガーの店内から一刻でも早く立ち去れるなら。そそくさと食べ終わったトレイを片付けて、上着をとった。彼はさっきまでペーパーに落書きをしていたペンをかばんに突っ込み(彼は紙とペンががあればいつでも絵を描いていたた)、そのまま京都駅へ向かった。
四条から京都駅への道の途中に住んでいた頃だったので、やっぱり必要だろうと思ってかばんに少しだけ、下着の替えとハンカチを数枚詰めた。それだけでじゅうぶんだった。化粧もいらない、何もいらない、必要なものは身体だけあればいい。本当なら手ぶらで行きたかったけれど、そうも行かないだろうからと持った、最小限の荷物にして手に持つと、かばんは存外重くなっていた。
京都駅はいつもよりも一段と人で賑わっていたように思う。年の瀬。クリスマスイブ。どこかの誰かが誰かに会いに行くために出ていく駅。どこかの誰かが誰か を迎えるために待つ駅。手に紙袋を幾つも提げた人や大きな荷物を持っている人もいる。場違いなような気もした。普段着で、身軽だったから。
行き先は本当に決まっていなかった。ふと会話の中で「関空特急はるかはどこに行くんだろうね」と、禅問答のような切れ端が出たのだ。乗るのははるか にしよ う、関空に行こうと何となく話が決まり、次のはるかが来るまでそれなりに時間があったので、立ち食い蕎麦屋で蕎麦をすすった。ぶよぶよと肥大した天ぷらの乗った、油っぽい蕎麦。
車内で特急券と乗車券を買った。入場するために最低限の切符しか買わなかったので、はるかに乗るには到底金額が足りなかったのだ。車内に入った途端私たちは二手に分かれて席を選ぶ。そして二人とも、別々の席に座った。その方が旅人っぽく見えるからだ。示し合わせたわけではなかったが、それは思ったよりも風通しがよくて、私たちにとってちょうどよい距離だ。歩くときも話すときも喋るときも、私たちには常に距離があった。どんなに身体的に近寄っていても、精神的には大地を分かつ深い川のような距離があり、それが縮むことは全くなかった。けれどそれを淋しく思ったことは殆どない。むしろあれ以上には近寄れないことに私は常に安堵していたのだから。がらがらに空いたはるかの中で、私は金色に染まっていく京都を見送った。殆ど話さなかった。話す必要も感じなかった。車内は少し乾いていて暖かかった。
普段大阪に行くために乗る阪急梅田線と違って人の少ない車内で、静かに、でも確実になにかへの期待が膨らんでいった。どこかへ行けることが嬉しかった。思 えば私はどこかへ行く途中が一番好きなのだ。目的地よりも。車内販売も、移る景色も、毛羽だったシートも含めて。
関空特急が終点に滑り込んだときは、短い冬の日はすっかり沈んでいて、昼の暖かさも明るさも遠かった。初めての駅だったのでそれでもちっとも構わなかっ た。関空にはまだタカシマヤがあって、閉店間際のその中をさっとだけ回った。人がいなくて、でも暖房で清潔で明るい店内だった。
デパートの匂いは、何処でも対して違わないんだなあとその時ふと思った。そして彼は本当につまらなさそうに(実際つまらなかったのだ、私も)ぼうっと店内をぐるっと見回していた。店内の、輪郭だけを眺めているような、ふわふわした眼差しで。私はでもその眼差しが好きだった。柔らかい秋の日差しに似ていたから。
彼のそのふわふわした視線はでももう行く場所を決めていて、それは関空に来たからには飛行機に乗ることだった。この時間以降でも乗れる国内線を探したら、 どうやら二つあるらしい。一つは女満別、もう一つは鹿児島。こういうときは、行く先は北に決まっている。女満別を選ぶつもりだった。
でも女満別には行けなかった。理由はよく思い出せないが兎に角、選べなかったのだった。仕方なく鹿児島に行くことにして、チケットを自動チェックイン機で買った。無機質に吐き出さ れたチケットを財布にしまい、その時点で私はもう殆ど飛行機に乗っていた。身体だけが関空にあった。そんな気持ちだった。
座席は、彼は迷うことなく窓際を選んでいた。私は「飛行機が飛ぶ」という事だけに随分興奮していたので、窓の外の夜の空は見なかった。というか見たのかも知れないが全く記憶にない。スパンコールのような街の灯りだったかもしれない。でもグレーのシートに深々と座っていたことに満足していた。
2010年3月27日土曜日
2010年3月20日土曜日
1月、2月の読書メーターまとめ
2010年2月の読書メーター
読んだ本の数:8冊
読んだページ数:2270ページ
■観光 (ハヤカワepiブック・プラネット)
読了日:02月25日 著者:ラッタウット・ラープチャルーンサップ
http://book.akahoshitakuya.com/b/415208796X
■エル・スール
常に「あなた」である父への語りかける物語。少女アドリアナの息づかいが聞こえてきそうなくらい、静謐で清潔な孤独の物語だった。最初の異性である父に対して抱いているのが、親愛と畏怖の絡み合った独特の感情なので、起こらなかった近親相姦や殉死の匂いも漂っている。アドリアナが行き着いたスールは、夢のように美しい所だったのだろう。いずれ映画も観てみたい。
読了日:02月22日 著者:アデライダ ガルシア=モラレス
http://book.akahoshitakuya.com/cmt/5094264
■「少女神」第9号
クールでキュートでファニー!こんな少女小説はアメリカでないと出てこないだろう。セックスやジェンダー、ドラッグ、ロックなどなど、日本のよいお父様お母様たちから見たら眉をひそめられてしまうだろうから。ただこの短編集の少女たちは、そこそこ裕福な家庭の子供たちだ。だからこそ持てあましている「ほてり」のような物があるのだろう。文字はレインボーグラデーション。いつか消えてしまう美しい若い時代、大人への架け橋としての虹の色を現したのだろうか。
読了日:02月19日 著者:フランチェスカ・リア ブロック
http://book.akahoshitakuya.com/cmt/5030869
■くらやみの速さはどれくらい (海外SFノヴェルズ)
読了日:02月14日 著者:エリザベス ムーン
http://book.akahoshitakuya.com/b/4152086033
■ナイトメア―心の迷路の物語
読了日:02月07日 著者:小倉 千加子
http://book.akahoshitakuya.com/b/4000241613
■家のロマンス
読了日:02月07日 著者:加藤 幸子
http://book.akahoshitakuya.com/b/4103452080
■オール・マイ・ラヴィング
中学生の頃の、身体の中で不機嫌さとぼおっとした熱気で火照ってもてあまし気味になる、あの時の気分を思い出す。ビートルズ全盛期に思春期を過ごした著者の自伝風長編なのだが、ビートルズの面々が顔を出しているわけではない。中学生だからこそ気持ちだけが先走って言葉がついてこない、あの妙な焦りや大人ぶった中に残っている幼さ、またその逆のものがつんつん金平糖のとげみたいに飛び出している。ああ、これは青春小説なんだ。
読了日:02月06日 著者:岩瀬 成子
http://book.akahoshitakuya.com/cmt/4838970
■レベッカ
読了日:02月01日 著者:ダフネ・デュ・モーリア
http://book.akahoshitakuya.com/b/4105055313
▼読書メーター
http://book.akahoshitakuya.com/
2010年1月の読書メーター
読んだ本の数:10冊
読んだページ数:3283ページ
■サレンダー
案外子どもは丈夫なのだが、それは子どもが世界から落下しないためであって、芯から丈夫なわけではない。アンウェルの孤独、疎外感には思い当たるものがある。囲い込むような孤独はアンウェルを、埋葬布のように包んでいった。誰もが見ていながら知らぬふりをしている内に。アンウェルには悪意がない。それがなお読者に悲しみややりきれなさ、残酷さを突きつけてくるように思う。YAの枠に収まらないハートネットには圧倒されてばかりだ。
読了日:01月30日 著者:ソーニャ ハートネット
http://book.akahoshitakuya.com/cmt/4735701
■灰色の魂
読了日:01月28日 著者:フィリップ・クローデル
http://book.akahoshitakuya.com/b/4622071142
■新潮クレストブックス初夜 (新潮クレスト・ブックス)
ユーモラスなのに、それだけでは終わらない。最後まで緊張感の続く物語だった。「初夜」に至までのまだるっこさを、若夫婦のあらゆる(現在或いは過去からの)視点がフィナーレまで続く。初夜というのは当事者でなければ、ロマンティックと言うよりグロテスクなのだろうが、読み進むうちに悲しみとおかしみ、二人への愛おしさが募る物語だった。
読了日:01月24日 著者:イアン・マキューアン
http://book.akahoshitakuya.com/cmt/4644097
■抱擁
侯爵(こうこうはくしだん、のこう)のお屋敷で小間使いとして雇われた年若い「わたし」。最後にある短い一言は!全ては「そこ」に向かうためだった、とはいえ…すごく、淋しくなる終わりだった。
読了日:01月21日 著者:辻原 登
http://book.akahoshitakuya.com/cmt/4597790
■薔薇密室
飛び抜けて美しいものも一種の畸形だと聞いた。強い光の下にはより濃い影が出来るようなものだと。ある一人の男が創った完結していない物語の本が、あちらやこちらに出現し、登場人物を惑わす。薔薇の溢れる僧院、窓のない部屋、ナチスドイツなどは舞台としても演出のための道具としても、この倒錯的な、隔離された世界の中で綴られる物語の、増幅装置になっていると思う。
読了日:01月18日 著者:皆川 博子
http://book.akahoshitakuya.com/cmt/4561387
■真鶴
失ったものは二度とは失えない、と思っていた。でも再び失うこともあるのだった。川上さん独特の読点の打ち方、擬態語はよくわからないが浮遊感がある。浮遊感というか、足もとの床が柔らかくなってしまうような、不穏な気持ちがする。柔らかな赤ん坊が成長して内側から硬くなる、という記述がとても好きだ。
読了日:01月14日 著者:川上 弘美
http://book.akahoshitakuya.com/cmt/4496684
■一期一会・さくらの花 (講談社文芸文庫)
傍観者のように淡々としていて、肉親の死もファンであった俳優の死も、何事もあるがままに受け入れている。悲しみさえも取り込んでしまって、その文章は感傷を洗い張りした着物のよう。文章に立ち上るような色気があることもなく、またその物語が波瀾万丈ドラマチックなものでもない。けれど、それなのに読まずに過ごすのは惜しい気になる。作家自身の視点がとても落ち着いていて、どんな場面でも俳優ぶることもないからだろうか。
読了日:01月10日 著者:網野 菊
http://book.akahoshitakuya.com/cmt/4437709
■七姫幻想
『戻り川心中』を再読したくなった。後ろ盾なくしては、ただ一本の糸のようなか弱いおんなの物語をミステリーに仕立て上げている。上品で風雅な雰囲気の和歌を用いておんなの情念や時代に振り回されるほかなかった寄る辺の無さなどが描かれていたように思う。全て読み終わると連作とはいえ、どれもかなり濃くリンクしているようだ。不勉強な部分が自分に多く、作品を作者の思惑通り丸ごと堪能したとは言えないかも知れないけれど。最後の五行にどきりとした。
読了日:01月08日 著者:森谷 明子
http://book.akahoshitakuya.com/cmt/4411627
■カサンドラの城
読了日:01月07日 著者:ドディー スミス
http://book.akahoshitakuya.com/b/4931284930
■完全版 最後のユニコーン
読了日:01月02日 著者:ピーター・S. ビーグル
http://book.akahoshitakuya.com/b/4054037747
読んだ本の数:8冊
読んだページ数:2270ページ
■観光 (ハヤカワepiブック・プラネット)
読了日:02月25日 著者:ラッタウット・ラープチャルーンサップ
http://book.akahoshitakuya.com/b/415208796X
■エル・スール
常に「あなた」である父への語りかける物語。少女アドリアナの息づかいが聞こえてきそうなくらい、静謐で清潔な孤独の物語だった。最初の異性である父に対して抱いているのが、親愛と畏怖の絡み合った独特の感情なので、起こらなかった近親相姦や殉死の匂いも漂っている。アドリアナが行き着いたスールは、夢のように美しい所だったのだろう。いずれ映画も観てみたい。
読了日:02月22日 著者:アデライダ ガルシア=モラレス
http://book.akahoshitakuya.com/cmt/5094264
■「少女神」第9号
クールでキュートでファニー!こんな少女小説はアメリカでないと出てこないだろう。セックスやジェンダー、ドラッグ、ロックなどなど、日本のよいお父様お母様たちから見たら眉をひそめられてしまうだろうから。ただこの短編集の少女たちは、そこそこ裕福な家庭の子供たちだ。だからこそ持てあましている「ほてり」のような物があるのだろう。文字はレインボーグラデーション。いつか消えてしまう美しい若い時代、大人への架け橋としての虹の色を現したのだろうか。
読了日:02月19日 著者:フランチェスカ・リア ブロック
http://book.akahoshitakuya.com/cmt/5030869
■くらやみの速さはどれくらい (海外SFノヴェルズ)
読了日:02月14日 著者:エリザベス ムーン
http://book.akahoshitakuya.com/b/4152086033
■ナイトメア―心の迷路の物語
読了日:02月07日 著者:小倉 千加子
http://book.akahoshitakuya.com/b/4000241613
■家のロマンス
読了日:02月07日 著者:加藤 幸子
http://book.akahoshitakuya.com/b/4103452080
■オール・マイ・ラヴィング
中学生の頃の、身体の中で不機嫌さとぼおっとした熱気で火照ってもてあまし気味になる、あの時の気分を思い出す。ビートルズ全盛期に思春期を過ごした著者の自伝風長編なのだが、ビートルズの面々が顔を出しているわけではない。中学生だからこそ気持ちだけが先走って言葉がついてこない、あの妙な焦りや大人ぶった中に残っている幼さ、またその逆のものがつんつん金平糖のとげみたいに飛び出している。ああ、これは青春小説なんだ。
読了日:02月06日 著者:岩瀬 成子
http://book.akahoshitakuya.com/cmt/4838970
■レベッカ
読了日:02月01日 著者:ダフネ・デュ・モーリア
http://book.akahoshitakuya.com/b/4105055313
▼読書メーター
http://book.akahoshitakuya.com/
2010年1月の読書メーター
読んだ本の数:10冊
読んだページ数:3283ページ
■サレンダー
案外子どもは丈夫なのだが、それは子どもが世界から落下しないためであって、芯から丈夫なわけではない。アンウェルの孤独、疎外感には思い当たるものがある。囲い込むような孤独はアンウェルを、埋葬布のように包んでいった。誰もが見ていながら知らぬふりをしている内に。アンウェルには悪意がない。それがなお読者に悲しみややりきれなさ、残酷さを突きつけてくるように思う。YAの枠に収まらないハートネットには圧倒されてばかりだ。
読了日:01月30日 著者:ソーニャ ハートネット
http://book.akahoshitakuya.com/cmt/4735701
■灰色の魂
読了日:01月28日 著者:フィリップ・クローデル
http://book.akahoshitakuya.com/b/4622071142
■新潮クレストブックス初夜 (新潮クレスト・ブックス)
ユーモラスなのに、それだけでは終わらない。最後まで緊張感の続く物語だった。「初夜」に至までのまだるっこさを、若夫婦のあらゆる(現在或いは過去からの)視点がフィナーレまで続く。初夜というのは当事者でなければ、ロマンティックと言うよりグロテスクなのだろうが、読み進むうちに悲しみとおかしみ、二人への愛おしさが募る物語だった。
読了日:01月24日 著者:イアン・マキューアン
http://book.akahoshitakuya.com/cmt/4644097
■抱擁
侯爵(こうこうはくしだん、のこう)のお屋敷で小間使いとして雇われた年若い「わたし」。最後にある短い一言は!全ては「そこ」に向かうためだった、とはいえ…すごく、淋しくなる終わりだった。
読了日:01月21日 著者:辻原 登
http://book.akahoshitakuya.com/cmt/4597790
■薔薇密室
飛び抜けて美しいものも一種の畸形だと聞いた。強い光の下にはより濃い影が出来るようなものだと。ある一人の男が創った完結していない物語の本が、あちらやこちらに出現し、登場人物を惑わす。薔薇の溢れる僧院、窓のない部屋、ナチスドイツなどは舞台としても演出のための道具としても、この倒錯的な、隔離された世界の中で綴られる物語の、増幅装置になっていると思う。
読了日:01月18日 著者:皆川 博子
http://book.akahoshitakuya.com/cmt/4561387
■真鶴
失ったものは二度とは失えない、と思っていた。でも再び失うこともあるのだった。川上さん独特の読点の打ち方、擬態語はよくわからないが浮遊感がある。浮遊感というか、足もとの床が柔らかくなってしまうような、不穏な気持ちがする。柔らかな赤ん坊が成長して内側から硬くなる、という記述がとても好きだ。
読了日:01月14日 著者:川上 弘美
http://book.akahoshitakuya.com/cmt/4496684
■一期一会・さくらの花 (講談社文芸文庫)
傍観者のように淡々としていて、肉親の死もファンであった俳優の死も、何事もあるがままに受け入れている。悲しみさえも取り込んでしまって、その文章は感傷を洗い張りした着物のよう。文章に立ち上るような色気があることもなく、またその物語が波瀾万丈ドラマチックなものでもない。けれど、それなのに読まずに過ごすのは惜しい気になる。作家自身の視点がとても落ち着いていて、どんな場面でも俳優ぶることもないからだろうか。
読了日:01月10日 著者:網野 菊
http://book.akahoshitakuya.com/cmt/4437709
■七姫幻想
『戻り川心中』を再読したくなった。後ろ盾なくしては、ただ一本の糸のようなか弱いおんなの物語をミステリーに仕立て上げている。上品で風雅な雰囲気の和歌を用いておんなの情念や時代に振り回されるほかなかった寄る辺の無さなどが描かれていたように思う。全て読み終わると連作とはいえ、どれもかなり濃くリンクしているようだ。不勉強な部分が自分に多く、作品を作者の思惑通り丸ごと堪能したとは言えないかも知れないけれど。最後の五行にどきりとした。
読了日:01月08日 著者:森谷 明子
http://book.akahoshitakuya.com/cmt/4411627
■カサンドラの城
読了日:01月07日 著者:ドディー スミス
http://book.akahoshitakuya.com/b/4931284930
■完全版 最後のユニコーン
読了日:01月02日 著者:ピーター・S. ビーグル
http://book.akahoshitakuya.com/b/4054037747
2010年1月14日木曜日
剥がれ落ちてゆく私、あなた、
『真鶴』(川上弘美 文藝春秋)を読んだ。読むかどうか迷って、結局は読んだ。このひとの本を読むと、自分がうすく剥がれ落ちていくような気がして、不穏な気持ちになる。嵐の直前のような、波の高い海を見ているような、そういう気持ち。波立つ冬の冷たい海を覗いている気持ちもに近い、ような気もする。読んでいる最中は波になっているのかも知れない。読み終わると、頭の奥から鳴るぼおっという霧笛で、色々なものがかき消される。かき消されてしまうから、仕方なく本当のまなこの他に頭の中にもうひと組あるまなこを閉じるしかなくなる。そうすると、しばらく現実が遠ざかってしまう。だから読むか迷う。今読むか、今読まないか、いつか読むか、いつまでも読まないか。四つの選択肢の中で、けれど選んでしまうのは「今読む」だ。
恋心や愛情、憎しみ、希望、たくさんのものを失ってきたけれど、私は人を失ったことはないはずだった。だから、京(けい 主人公)が礼(れい 京の夫)を 失うことがわからなかった。礼は物語の中でいない人だ。でも、いないのに、ずっといる。数字のゼロのように、存在しない数なのに概念だけが「ある」ように。だから物語の中で京は何度も礼を失っている。失っているというか、 失い続けている(最終的には、失い続けなくてもよよくなる)。京につきまとう女のようにぴったりとはり付いて傍観者になって見ていると、だんだん息詰まっ てくる。深呼吸しても、胸元に詰まったのったりした餅のようななにかは、滑り落ちることもなく嘔吐されることもなく留まっていて、本を閉じても息苦しい。 やり場のない船酔いのよう。
失うということはこわいことだ。私は失いたくない。自らが手放すと決められないということ、否応なしに手元からなくなると決定されることがこわい。だから私は失いたくない。
人を所有したことは一度もない。というより、人は人を所有できない。所有していないしできないものなら失うことはない。産んだ子どもですら私は所有できていない(子どもは私に属している、或いは私が子どもに属している。どちらにしろお互いはお互いを所有しているわけではないと思う)のだから、私が産んでいない大人など所有できるはずもない。
けれども、ひとと二度と会わないだろうと決まった瞬間から、私からそのひとが剥がれ落ちてゆく。失うのではなく、剥がれる。私のある部分にそのひとの一部分を覆い被せていたそのひとは、剥がれて元の、そのひとの身体に戻ってゆこうとする。そのひとが私から剥がれ私からそのひとが剥がれると、もう私はそのひとに干渉できなくなる。それを、私は哀しく思うしかできない。これまでに何度も見続けてきた、私から剥がれ落ちてゆくあなた(がた)、あなた(がた)から剥がれ落ちてゆく私。あなた(がた)も同じように私を哀しく見つめてくれたのだろうか。乾いた指先から白く剥がれ落ちてゆく、死んだ皮膚のような私を。
ぼろぼろと剥がれ落ちていった私は、一体どこにいるのだろう。あなた(がた)から失われた私を、戻ってくることを私は拒んでいるのだろうか。あなた(がた)から離れて一体どこに行ってしまったのだろう。剥がれ落ちた、私だったかのじょたちは、私からも失われてしまったのだろうか。えいえんに。永遠。
修道院のサラダ
冬になってから、冷たい野菜を食べていない。冷たい野菜、とは、サラダのこと。サラダはよく冷えていた方が美味しいし、火照った身体をさますのに丁度いいと思う。良く冷やした水に近い食べ物で、果物ならすいかに近しい。私の中でサラダは夏の食べ物で夏の季語だ。だから冬になってからはサラダは食べていない。
失ったものの方がうつくしかったり、比べるとより価値があったように思うのと同じ。「むかし」「そこ」になくて「いま」「ここ」にあるものをうつくしく思うことは少ない。「むかし」「そこ」にあって「いま」「ここ」にあるものは過去と現在を繋げているのだから、うつくしく思えなくても、構わない。いずれうつくしくなるだろう。「むかし」「そこ」にあって「いま」「ここ」にないものが、うつくしくこころに残る。ものをうつくしがれるのはそれが既に過去になっているからだ。過去で止まっているからだ。過去の色を留めているからだ。
それと同じように食べていないものは、食べていないときの方がより鮮明に「美味しい」或いは「美味しかった」と思う。同じ材料で同じ作り方で同じ条件ででも、過去の味に勝るものはすくない。それは記憶が美化しているだけかも知れないけれど、その最上級のサラダが、修道院で食べたサラダだ。
お世話になったシスターがいて、かのじょが新田原の修道院から京都へ来られたことがあった。九州へ帰られる前に会えたらとお声をかけてくださって、私はいそいそと出掛けていったのだった。かのじょは変わらずふくふくと大らかで、しわが深く刻み込まれて日に焼けた手も、変わらず優しかった。頬ははじめて出会ったときと同じようにつやりと輝いていて、朗らかに笑う姿は、変わらない。
どういう話の流れで修道院にお邪魔したのかはもう殆ど覚えていない。河原町教会で会ったはずで、めずらしくひとのいない教会を出た後、阪急京都線のある駅で降りたと思うのだけれど、もしかしたら大宮あたりで一旦降りて、ふたりで歩いていったような気もする。その頃私は、殆どものを食べず、カーテンを閉め切った部屋で壁を睨みつけて一日を過ごしているような不健全な生活をしていて、夏でも外出するにはごく薄いカーディガンを手放せずにいた。袖がない服を着ることが出来なかった。ものを食べないものだから不健康な顔色をしていて、今よりもさらに潔癖だった。冬ではなかったことだけが確かだけれど、梅雨入り前のことか、梅雨が明けた後のことか、よく覚えていない。ただその日が曇りだったことはよく覚えている。雨が降りそうな湿った空気が漂っていたけれど、降り出すには足りないというような曇りだった。
シスターに伴われてふらりと現れた(と言うよりほかない)部外者である私を、その修道院のシスターは快く迎え入れてくださった。低くうなりそうな空の下、修道院の裏手にあるささやかな畑を見ながら中へ招かれ、食卓のある小さな部屋へと促される。窓の外で猫がそそくさと通りすぎていくのを見ながら、気恥ずかしさと小さな居心地の悪さを抱きつつ、遅めの昼食をいただいた。小さなおにぎり、トースト、そして修道院の裏手でとれたと野菜を使った、サラダ。みずみずとしたうすい、春の海の色をしたきゃべつとちりちりっとフリルが可愛らしいレタス、しゃっきりしたたまねぎをざっくりと皿に盛った簡素なサラダは、存外のどごしが良くて驚いた。美味しかった。ただもう美味しかった。
ふたりのシスターは朗らかで、元気だった。その中でいちばん年若いはずの私よりも断然溌剌としていて、それでいて静かだった。日が傾き始める前に私たちは修道院をおいとまして、シスターは九州へ、私は自分の部屋へ帰った。桂より東に部屋を借りていたので、日暮れに向かって、帰った。歩いて戻ったのか途中でバスに乗ったのか、それは覚えていない。胃袋の中でレタスもきゃべつもきっちり消化を始めているのが分かったけれど、そのことに久しぶりに罪悪感を持たずに、そのまま眠ったのだった。
その日以前も以来も、何度も葉野菜のサラダを食べているけれど、全然、あのときのサラダの味にはならない。味が近づくこともない。近いような気になることもない。例えば今、別の修道院でサラダをいただいても、あの時と同じ味にはならないことは、何となく分かっている。二度と食べられない、「むかし」「そこ」にあったサラダ。「いま」「ここ」にいる私が、永遠に失った修道院のサラダ。今よりももっと簡単に「絶望」していた頃のはなし。
失ったものの方がうつくしかったり、比べるとより価値があったように思うのと同じ。「むかし」「そこ」になくて「いま」「ここ」にあるものをうつくしく思うことは少ない。「むかし」「そこ」にあって「いま」「ここ」にあるものは過去と現在を繋げているのだから、うつくしく思えなくても、構わない。いずれうつくしくなるだろう。「むかし」「そこ」にあって「いま」「ここ」にないものが、うつくしくこころに残る。ものをうつくしがれるのはそれが既に過去になっているからだ。過去で止まっているからだ。過去の色を留めているからだ。
それと同じように食べていないものは、食べていないときの方がより鮮明に「美味しい」或いは「美味しかった」と思う。同じ材料で同じ作り方で同じ条件ででも、過去の味に勝るものはすくない。それは記憶が美化しているだけかも知れないけれど、その最上級のサラダが、修道院で食べたサラダだ。
お世話になったシスターがいて、かのじょが新田原の修道院から京都へ来られたことがあった。九州へ帰られる前に会えたらとお声をかけてくださって、私はいそいそと出掛けていったのだった。かのじょは変わらずふくふくと大らかで、しわが深く刻み込まれて日に焼けた手も、変わらず優しかった。頬ははじめて出会ったときと同じようにつやりと輝いていて、朗らかに笑う姿は、変わらない。
どういう話の流れで修道院にお邪魔したのかはもう殆ど覚えていない。河原町教会で会ったはずで、めずらしくひとのいない教会を出た後、阪急京都線のある駅で降りたと思うのだけれど、もしかしたら大宮あたりで一旦降りて、ふたりで歩いていったような気もする。その頃私は、殆どものを食べず、カーテンを閉め切った部屋で壁を睨みつけて一日を過ごしているような不健全な生活をしていて、夏でも外出するにはごく薄いカーディガンを手放せずにいた。袖がない服を着ることが出来なかった。ものを食べないものだから不健康な顔色をしていて、今よりもさらに潔癖だった。冬ではなかったことだけが確かだけれど、梅雨入り前のことか、梅雨が明けた後のことか、よく覚えていない。ただその日が曇りだったことはよく覚えている。雨が降りそうな湿った空気が漂っていたけれど、降り出すには足りないというような曇りだった。
シスターに伴われてふらりと現れた(と言うよりほかない)部外者である私を、その修道院のシスターは快く迎え入れてくださった。低くうなりそうな空の下、修道院の裏手にあるささやかな畑を見ながら中へ招かれ、食卓のある小さな部屋へと促される。窓の外で猫がそそくさと通りすぎていくのを見ながら、気恥ずかしさと小さな居心地の悪さを抱きつつ、遅めの昼食をいただいた。小さなおにぎり、トースト、そして修道院の裏手でとれたと野菜を使った、サラダ。みずみずとしたうすい、春の海の色をしたきゃべつとちりちりっとフリルが可愛らしいレタス、しゃっきりしたたまねぎをざっくりと皿に盛った簡素なサラダは、存外のどごしが良くて驚いた。美味しかった。ただもう美味しかった。
ふたりのシスターは朗らかで、元気だった。その中でいちばん年若いはずの私よりも断然溌剌としていて、それでいて静かだった。日が傾き始める前に私たちは修道院をおいとまして、シスターは九州へ、私は自分の部屋へ帰った。桂より東に部屋を借りていたので、日暮れに向かって、帰った。歩いて戻ったのか途中でバスに乗ったのか、それは覚えていない。胃袋の中でレタスもきゃべつもきっちり消化を始めているのが分かったけれど、そのことに久しぶりに罪悪感を持たずに、そのまま眠ったのだった。
その日以前も以来も、何度も葉野菜のサラダを食べているけれど、全然、あのときのサラダの味にはならない。味が近づくこともない。近いような気になることもない。例えば今、別の修道院でサラダをいただいても、あの時と同じ味にはならないことは、何となく分かっている。二度と食べられない、「むかし」「そこ」にあったサラダ。「いま」「ここ」にいる私が、永遠に失った修道院のサラダ。今よりももっと簡単に「絶望」していた頃のはなし。
2010年1月2日土曜日
善き日に
あけましておめでとうございます。
旧年中は、このウェブ日記を読んでくださってありがとうございました。拙い日記ではありますが、またどうぞよろしくお願いいたします。
12月の読書メーターまとめ
2009年12月の読書メーター
読んだ本の数:14冊
読んだページ数:3394ページ
■少女七竈と七人の可愛そうな大人 (角川文庫)
大人っていうのは冷蔵庫の奥で乾いてカビが生えた餅のように可哀想なものと、相場が決まっているんだ。そして少年少女の方が、大人たちよりもずっとタフだし優しいのだから、大人たちのことは許さなくても許せなくても忘れてやってほしい。いつか思い出すときまで。
読了日:12月31日 著者:桜庭 一樹
http://book.akahoshitakuya.com/cmt/4302808
■五月金曜日
ひとつひとつ、ゆるゆると読みながら、日本語をいとおしく思った。きっとこの人は透明にはならない。風のように飛んでいったりもしない。とても、好きな日本語だった。
読了日:12月28日 著者:盛田 志保子
http://book.akahoshitakuya.com/cmt/4272785
■魚のように
読了日:12月27日 著者:中脇 初枝
http://book.akahoshitakuya.com/b/4103910011
■沼地のある森を抜けて (新潮文庫)
恋も愛も死も遺伝子の思惑だとしたら、魂はどこにあるのだろう?死の匂いの濃い物語だったように思う。死というか死をも含む生命の混沌というのだろうか。梨木さんの「行きて帰りし物語」は必ずその再生までが間歇泉のように描かれていて、例えば癒しという単純な言葉にできない所がとても好きだ。
読了日:12月23日 著者:梨木 香歩
http://book.akahoshitakuya.com/cmt/4218671
■木曜日に生まれた子ども
息苦しくて堪らなかった。書き手の母の絶望や父の臆病さは、書き手であるハーパーによって次第にわかるのだが、子どもにとって親という存在は、それだけで暴力だ。子どもにとって絶対である父と母の、人間としての脆さや弱さが段々と見えてくるところや、家は全ての災厄から子どもたちを守ってくれる場所ではないというところ。ティンが地面を掘り続けているというのはファンタジーっぽくもあるのに彼らの貧困や迷い、弱さにとても現実味があって、読むのを途中でやめられなかった。著者の別の作品を読んだことはあるが、すごい。
読了日:12月20日 著者:ソーニャ・ハートネット
http://book.akahoshitakuya.com/cmt/4191562
■やんごとなき読者
女王が読書にどっぷりと浸かり、公務が上の空なんて!その取り合わせのギャップがまた良い。格闘家とケーキ、夢の島とユニコーン、といったところだろうか。読むことの面白さを知る、まるで新しい眼鏡で世界を見渡し始めた初々しさや、自分を知的に見せようとしない感想も、とても愛らしい。読書との蜜月はまるで少女のよう。まあ、八十年生きてきたら可愛いだけのババアにはならない、女王だからただの可愛げのあるババアとは限らなくて、そう言うところがきちんと描かれていてとても楽しかった。読書を始めたばかりの子どもたちにも読んで欲しいな
読了日:12月19日 著者:アラン ベネット
http://book.akahoshitakuya.com/cmt/4187263
■二つの月の記憶
読みながらぞくっとした。つめたい、かたちのない手に頬を撫でられたような気がして。「不思議」というたんじゅんでべんりでめいかいな言葉を使いたくないのだが、独特の毒々しい浮遊感のある作品集だと思う。幽かなエロティシズム。肉の付き始めた少女(或いは少年)の生白いふくらはぎのような、そういうエロティシズム。
読了日:12月18日 著者:岸田 今日子
http://book.akahoshitakuya.com/cmt/4171902
■みじかい眠りにつく前に 2 (2) (ピュアフル文庫 ん 1-12)
川島誠さん!!彼の描く子どもたちはおおよそ児童向きではないのだけれど、昔子どもだった立場から読むとものすごく強烈に響く。さすが金原瑞人セレクションだなあ。どれも芯が固くて、味が濃い。えぐみもある。
読了日:12月15日 著者:あさの あつこ
http://book.akahoshitakuya.com/cmt/4148723
■いじわるな天使
読了日:12月14日 著者:穂村 弘
http://book.akahoshitakuya.com/b/4757211821
■奇術師の家
読了日:12月11日 著者:魚住 陽子
http://book.akahoshitakuya.com/b/4022561165
■復讐するは我にあり 改訂新版
読了日:12月10日 著者:佐木 隆三
http://book.akahoshitakuya.com/b/4902116804
■八番筋カウンシル
読了日:12月06日 著者:津村 記久子
http://book.akahoshitakuya.com/b/402250529X
■ラピスラズリ
読了日:12月03日 著者:山尾 悠子
http://book.akahoshitakuya.com/b/4336045224
■百合と腹巻―Tanabe Seiko Collection〈1〉 (ポプラ文庫)
読了日:12月03日 著者:田辺 聖子
http://book.akahoshitakuya.com/b/4591104338
▼読書メーター
http://book.akahoshitakuya.com/
読んだ本の数:14冊
読んだページ数:3394ページ
■少女七竈と七人の可愛そうな大人 (角川文庫)
大人っていうのは冷蔵庫の奥で乾いてカビが生えた餅のように可哀想なものと、相場が決まっているんだ。そして少年少女の方が、大人たちよりもずっとタフだし優しいのだから、大人たちのことは許さなくても許せなくても忘れてやってほしい。いつか思い出すときまで。
読了日:12月31日 著者:桜庭 一樹
http://book.akahoshitakuya.com/cmt/4302808
■五月金曜日
ひとつひとつ、ゆるゆると読みながら、日本語をいとおしく思った。きっとこの人は透明にはならない。風のように飛んでいったりもしない。とても、好きな日本語だった。
読了日:12月28日 著者:盛田 志保子
http://book.akahoshitakuya.com/cmt/4272785
■魚のように
読了日:12月27日 著者:中脇 初枝
http://book.akahoshitakuya.com/b/4103910011
■沼地のある森を抜けて (新潮文庫)
恋も愛も死も遺伝子の思惑だとしたら、魂はどこにあるのだろう?死の匂いの濃い物語だったように思う。死というか死をも含む生命の混沌というのだろうか。梨木さんの「行きて帰りし物語」は必ずその再生までが間歇泉のように描かれていて、例えば癒しという単純な言葉にできない所がとても好きだ。
読了日:12月23日 著者:梨木 香歩
http://book.akahoshitakuya.com/cmt/4218671
■木曜日に生まれた子ども
息苦しくて堪らなかった。書き手の母の絶望や父の臆病さは、書き手であるハーパーによって次第にわかるのだが、子どもにとって親という存在は、それだけで暴力だ。子どもにとって絶対である父と母の、人間としての脆さや弱さが段々と見えてくるところや、家は全ての災厄から子どもたちを守ってくれる場所ではないというところ。ティンが地面を掘り続けているというのはファンタジーっぽくもあるのに彼らの貧困や迷い、弱さにとても現実味があって、読むのを途中でやめられなかった。著者の別の作品を読んだことはあるが、すごい。
読了日:12月20日 著者:ソーニャ・ハートネット
http://book.akahoshitakuya.com/cmt/4191562
■やんごとなき読者
女王が読書にどっぷりと浸かり、公務が上の空なんて!その取り合わせのギャップがまた良い。格闘家とケーキ、夢の島とユニコーン、といったところだろうか。読むことの面白さを知る、まるで新しい眼鏡で世界を見渡し始めた初々しさや、自分を知的に見せようとしない感想も、とても愛らしい。読書との蜜月はまるで少女のよう。まあ、八十年生きてきたら可愛いだけのババアにはならない、女王だからただの可愛げのあるババアとは限らなくて、そう言うところがきちんと描かれていてとても楽しかった。読書を始めたばかりの子どもたちにも読んで欲しいな
読了日:12月19日 著者:アラン ベネット
http://book.akahoshitakuya.com/cmt/4187263
■二つの月の記憶
読みながらぞくっとした。つめたい、かたちのない手に頬を撫でられたような気がして。「不思議」というたんじゅんでべんりでめいかいな言葉を使いたくないのだが、独特の毒々しい浮遊感のある作品集だと思う。幽かなエロティシズム。肉の付き始めた少女(或いは少年)の生白いふくらはぎのような、そういうエロティシズム。
読了日:12月18日 著者:岸田 今日子
http://book.akahoshitakuya.com/cmt/4171902
■みじかい眠りにつく前に 2 (2) (ピュアフル文庫 ん 1-12)
川島誠さん!!彼の描く子どもたちはおおよそ児童向きではないのだけれど、昔子どもだった立場から読むとものすごく強烈に響く。さすが金原瑞人セレクションだなあ。どれも芯が固くて、味が濃い。えぐみもある。
読了日:12月15日 著者:あさの あつこ
http://book.akahoshitakuya.com/cmt/4148723
■いじわるな天使
読了日:12月14日 著者:穂村 弘
http://book.akahoshitakuya.com/b/4757211821
■奇術師の家
読了日:12月11日 著者:魚住 陽子
http://book.akahoshitakuya.com/b/4022561165
■復讐するは我にあり 改訂新版
読了日:12月10日 著者:佐木 隆三
http://book.akahoshitakuya.com/b/4902116804
■八番筋カウンシル
読了日:12月06日 著者:津村 記久子
http://book.akahoshitakuya.com/b/402250529X
■ラピスラズリ
読了日:12月03日 著者:山尾 悠子
http://book.akahoshitakuya.com/b/4336045224
■百合と腹巻―Tanabe Seiko Collection〈1〉 (ポプラ文庫)
読了日:12月03日 著者:田辺 聖子
http://book.akahoshitakuya.com/b/4591104338
▼読書メーター
http://book.akahoshitakuya.com/
2009年12月27日日曜日
うしなう
たくさんの人が通り過ぎていってしまった。死んでしまった人もいるし、もうどこにいるのかも分からない人もいる。
どこにいるか分からないのは私にとってのみのことであって、私が思い出す対象であるその人たちは、無事に楽しく日々を過ごしているのだろう。その人たちにとって、私がその人たちを思い出すのと同じように私を思い出すことはあるかも知れないし、ないかも知れない。多分、ないだろう。
思い出されることもなくなってしまったら、私はその時、いなくなってしまう。過去知り合った時すら消されてしまう。だから、私が覚えているしかない。私の過去を消さないために、私が私を覚えているしかない。
また一人通り過ぎていった。そのひとを私は所有したはずはない。なのに何故、失ったように思うのだろう。何故悲しく思うのだろう。まるで、まとわりついていた亡霊を消してしまったようだ。人は、人を手に入れられない。当たり前のことなのに、私は忘れていた。だからだろうか?ちっとも涙が出なかった。一粒も。
涙を失った私はまた、その人たちにとっていない人になる。
どこにいるか分からないのは私にとってのみのことであって、私が思い出す対象であるその人たちは、無事に楽しく日々を過ごしているのだろう。その人たちにとって、私がその人たちを思い出すのと同じように私を思い出すことはあるかも知れないし、ないかも知れない。多分、ないだろう。
思い出されることもなくなってしまったら、私はその時、いなくなってしまう。過去知り合った時すら消されてしまう。だから、私が覚えているしかない。私の過去を消さないために、私が私を覚えているしかない。
また一人通り過ぎていった。そのひとを私は所有したはずはない。なのに何故、失ったように思うのだろう。何故悲しく思うのだろう。まるで、まとわりついていた亡霊を消してしまったようだ。人は、人を手に入れられない。当たり前のことなのに、私は忘れていた。だからだろうか?ちっとも涙が出なかった。一粒も。
涙を失った私はまた、その人たちにとっていない人になる。
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