2010年5月2日日曜日

4月の読書メーターまとめ

 2010年4月の読書メーター
読んだ本の数:22冊
読んだページ数:6764ページ

■ブロデックの報告書
異質なものを嫌うのは人間だけでなく生物の本能なのだろうが、それを存分に操ったのは誰だったのか。小さな村に起きた「よそ者の到来」はくすぶり続ける戦渦に小さな火花を落とし、そして村人はその火を鞴で吹くように大きくした。主人公は村の「浄化」を報告書にまとめるようにと命令される。そして「浄化」の真実を並行して書き始める。知っている者がいなくなればその出来事はなかったことになるか?この「報告書」が消滅すれば無かったことに出来るのか?そうではない、それは事実としてあったのだという主人公の叫び声が聞こえるようだ。それはそれは人が人として、「異質」を怖れ る内はいつでも、何度でも。
読了日:04月29日 著者:フィリップ・クローデル
http://book.akahoshitakuya.com/cmt/5910637

■高慢と偏見〔新装版〕 (河出文庫)
読了日:04月29日 著者:ジェイン・オースティン
http://book.akahoshitakuya.com/b/4309462642

■エミリ・ディキンスン家のネズミ
読了日:04月26日 著者:エリザベス・スパイアーズ
http://book.akahoshitakuya.com/b/4622072661

■スノウ・ティアーズ
梨屋アリエ作品では腑に落ちる方だと思う。それぞれの章で起きる主人公・君枝にとっての不可思議な体験も、自分自身の島にたどり着くためのクロールだったようだ。
読了日:04月25日 著者:梨屋 アリエ
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■再起 (ハヤカワ・ミステリ文庫 フ 1-41)
読了日:04月22日 著者:ディック フランシス
http://book.akahoshitakuya.com/b/4150707413

■左岸
もの凄く久しぶりに受けた、江國香織の洗礼。言葉はどれも柔らかく、振り返るとその言葉以外は当てはまらないと思わせる筆力だ。茉莉は『神様のボート』と同じように舟に乗ってしまったのだろう。流されやすいところ、流れに乗って何処までも行くところ、どのような波にも揺れて、でも決して転覆しないところ。冗長な部分もあるので読んでいると中だるみするかも、とは思った。私の中ではもう茉莉も九も完結したので、『右岸』は読めない。
読了日:04月21日 著者:江國 香織
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■ポポイ (新潮文庫)
なんという毒々しい少女の夢!愛さなくても異性の首を飼うという、奇妙だが美しく、時に現れるエロティック加減にくらくらした。政界の元老(と言われている)祖父の前に現れて切腹、介錯された少年の首を孫娘が預かり、育てる。これが昭和に書かれた物語なのかとびっくりする。
読了日:04月20日 著者:倉橋 由美子
http://book.akahoshitakuya.com/cmt/5796110

■ねじまき鳥クロニクル〈第3部〉鳥刺し男編 (新潮文庫)
読了日:04月19日 著者:村上 春樹
http://book.akahoshitakuya.com/b/410100143X

■ねじまき鳥クロニクル〈第2部〉予言する鳥編 (新潮文庫)
読了日:04月18日 著者:村上 春樹
http://book.akahoshitakuya.com/b/4101001421

■五月の霜 (lettres)
読了日:04月18日 著者:アントニア・ホワイト
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■ねじまき鳥クロニクル〈第1部〉泥棒かささぎ編 (新潮文庫)
読了日:04月17日 著者:村上 春樹
http://book.akahoshitakuya.com/b/4101001413

■13歳の沈黙 (カニグズバーグ作品集 9)
再読
読了日:04月15日 著者:E.L. カニグズバーグ
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■バンビ―森の生活の物語 (岩波少年文庫 (2078))
森に生きるノロジカを描いた物語。かわいらしさとは無縁の、厳しい「生の掟」をバンビは知る。生きると言うこと、愛すると言うこと、慈しむと言うこと、相容れないものへの憐れみなど、バンビは森の王である父から教えられる。ディズニーが描いた明るく音に溢れた物語も楽しいが、この物語は楽しいだけではない、生き物の命の賛歌だ。
読了日:04月12日 著者:ザルテン
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■悦楽の園
再読・後ほど
読了日:04月10日 著者:木地 雅映子
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■モモちゃんとアカネちゃんの本(5)アカネちゃんとお客さんのパパ (児童文学創作シリーズ)
読了日:04月09日 著者:松谷 みよ子,伊勢 英子
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■モモちゃんとアカネちゃんの本(4)ちいさいアカネちゃん (児童文学創作シリーズ)
読了日:04月09日 著者:松谷 みよ子
http://book.akahoshitakuya.com/b/4061192345

■モモちゃんとアカネちゃんの本(3)モモちゃんとアカネちゃん (児童文学創作シリーズ)
読了日:04月09日 著者:松谷 みよ子
http://book.akahoshitakuya.com/b/4061192337

■モモちゃんとアカネちゃんの本(2)モモちゃんとプー (児童文学創作シリーズ)
読了日:04月09日 著者:松谷 みよ子
http://book.akahoshitakuya.com/b/4061192329

■モモちゃんとアカネちゃんの本(1)ちいさいモモちゃん (児童文学創作シリーズ)
読了日:04月09日 著者:松谷 みよ子
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■IN
読了日:04月07日 著者:桐野 夏生
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■ナニカアル
物語は書かれた時点で、作家のファンタジーになる。ばらまかれたフィクション。私たちが知っている、共通認識としてある「林芙美子」を描きながら、実際のそれは愛の行き止まりだ。桐野夏生の小説に出てくる女性は大概タフであるが、時代性もあり芙美子は信じられないほどタフだ。そして蓮っ葉。どことなく漂う「いつか訪れる死」への諦め、新しい命と家庭への優しい眼差しを内包した女性の、なんと強いことよ!
読了日:04月06日 著者:桐野 夏生
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▼読書メーター
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今月は桐野夏生二冊を連続して読んだので、ちょっとくらくらした。モモちゃんの最終巻は、そろそろ本当に手に入れたい。おきゃくさんになったおおかみのパパと、モモちゃんとアカネちゃんとママたち三人に、どのような物語の終わりがあるのか、自分の眼でも確かめたい。
今更ながら『高慢と偏見』を読んだのだが、もっと早くに読めば良かったと嬉しい後悔ばかり!
『悦楽の園』は発達障害の子どもが出てくる。それについてはもっと知りたいこともあるので、なんとか知識を増やしてからまた読もうと思っている。

2010年4月8日木曜日

夜を越える飛行機(2)

夜を越える飛行機(1)

  飛行機は飛ぶのだ。当たり前のことだが、そのことにとても感心した。そして「こんな鉄の塊が空を飛んでいるなんて、面白い」と、自分の膝の辺りを、前の座席シートを、隣で暗闇を覗き込んでいる彼を見ながら思った。乗客はほとんどいないので機内をぐるりと見渡してみたら、機内は思ったほど広くはないが狭いわけでもない。新幹線のように途方もないということもなく、バスのように閉鎖的でもない。私は機内が気に入った(何より、バスのように嫌な匂いが殆どしない、という点でも)。足の下に床はあるけれど地面はない、ということが面白くて、いつまでも乗っていたいと思い始めた頃、飛行機は着陸準備を始める。けれど私はじゅうぶん堪能した。「飛行機に乗っている自分」と「飛行機に乗っている人を眺める自分」の両方を見たい、という欲は満たされたのだから。


  鹿児島空港へ機体がゆっくりと身を寄せ、私たちも一気に地上の重力に引き戻される。足の下にはしばらく見なかった地面!コンクリートの灰色もアスファルトの濃い墨色も懐かしくて、私は地面に口付けをしたくなった。

  空港に着いたはいいがその後のことを私たちは全く考えていなかった。「どこかへ行きたい」ということにのみ忠実で、そこに現実がついて回るとは思わなかったのだ、二人とも。現実というのは、ごはんやベッド(或いは布団)のこと。浮き足立っていたので一気に現実に近寄られて、私たちは戸惑った。いや、多分鹿児島空港に飛行機が着陸した時点で、私たちは失望してしまったのだろう。だから、現実に戸惑ってしまった。

  とりあえず人に聞くと運行中のバスがあるという。終点近くまで乗ればシティホテルもあるらしいと聞き、半分萎んでしまった期待をなんとか宥めて乗り込む。こんな時間に来る客を泊めてくれるような宿なんて、連れ込み宿くらいしかないだろう、それも心中をしようと思い立ったカップルが向かうような。古くさいソープオペラを思い出しながら、そんな私を気にかけずバスは走る。道はうねうねと曲がりだし、それに連れてどんどん市街地から離れて、電灯の立っている間隔も開いていく。窓は開いていなかったが少しずつ、空気に匂いがつき始めた。何の匂いかわからなかったけれど、それは不穏な匂いだった。空腹も感じさせないような不穏な匂い。その正体はその時はまったく思いも寄らなかった。

  本当に、この先に温泉のついたホテルがあるというのだろうか?もしかして今乗っているバスは本当はバスではないのかもしれない。となると、私は実は鹿児島には来ていなくて、別の空港に降りたのかもしれない。でも、空港には「鹿児島」の文字があった。けれどそれが確実かと問われたら、多分頷けない……。夜という青黒い闇の中で妄想はどんどん広がる。闇が荷担するからだ。自分が始めた妄想に囚われ始めた私は、運転手の後頭部とミラーを交互に見る。段々本当の人間が運転しているのかわからなくなる。いつの間にか夢の中でバスに乗っているような気になり、いつもは酔いやすいのにこの時はちっとも酔わなかった。私は闇にとけ始めたのだ。

2010年4月7日水曜日

3月の読書メーターまとめ

 振り返ってみると、三月は海外のものばかりを読んでいたようだ。キング以外は初めての作家ばかり!そしてキングの「冗長で半分うんざりしてしまいつつ、途中の描写をとばしつつも最後まで読ませてしまう物語の展開」は楽しい。たまに読むと自分の中の澱がはっきりわかるのが、またいい。それをデトックスしないで溜め込んでいてもまあいいと思わせるところとかが。


2010年3月の読書メーター
読んだ本の数:7冊
読んだページ数:2177ページ

■それぞれの少女時代 (群像社ライブラリー)
少女が内包している残酷さ、柔らかに現れ始める肉体の開花、恋への憬れ、人種や職種による貧富についてが、軽やかに描かれている。グレイッシュな水彩画のような物語だった。少女は決してパステルカラーの砂糖菓子ではない!
読了日:03月29日 著者:リュドミラ ウリツカヤ
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■精霊たちの家 (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 2-7)
読了日:03月26日 著者:イサベル・アジェンデ
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■ある秘密 (新潮クレスト・ブックス)
期せずしてこれもある家族の物語だった。第二次世界大戦によって生まれた「ある秘密」は主人公の父母にとって、隣人のルイーズにとってタブーであり常に重くのしかかっている。それらが白日の下に晒され、再度物語として編まれてやっと天に帰るまでの“物語”だ。文体が散文調で婉曲な表現なので、詩的な美しさもあると思う。
読了日:03月16日 著者:フィリップ グランベール
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■時のかさなり (新潮クレスト・ブックス)
子供の目の高さだと視界が狭いと思うのは大人ばかりで、彼らは案外色々なものを見ているのである。「見てはいけない」と言われたものも。現代から遡っていくある一族の、四代に渡る歴史物語ではあるが、その語り手は全て六歳の子供。現代へ時代が下がるにつれて出来た謎を、逆から世代を超えて追いかけていく形で物語が進む。まるでミステリー!けれど家族の繋がりほど身近で密やかなミステリーはなかなかないはず。とても気に入っている。
読了日:03月13日 著者:ナンシー ヒューストン
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■ドロレス・クレイボーン
読了日:03月10日 著者:スティーヴン キング
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■ディビザデロ通り (新潮クレスト・ブックス)
読了日:03月05日 著者:マイケル オンダーチェ
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■千年の祈り (新潮クレスト・ブックス)
べったりと凪いだ海、大きくて少々の風にも動じない湖のような短編集だった。本の中の穏やかな水面は、けれども残酷なほど日の光をぎらぎらと照り返す強さはある。一人でしか立つことが出来ない、何をも成し遂げるわけではない、大勢の人々の中からスポットが当たっただけの登場人物たちには、近しさを感じている。「市場の約束」と「ネブラスカの姫君」表題作「千年の祈り」が特に好きだ。
読了日:03月01日 著者:イーユン リー
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▼読書メーター
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2010年3月27日土曜日

夜を越える飛行機(1)

 少し前twitterにて呟いていたものを加筆しました。続きはまた近いうちに。
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ある年の12月24日、私はその頃よく遊んでいた、一つ年上の男の子と向かい合って座っていた。昼下がり、四条通のモスバーガーで。ふと彼が「どこか行こうか」 と呟いた。その日目を覚ましたのは正午頃、空っぽの冷蔵庫に背を向けて部屋を飛び出た先の四条通のモスバーガーで。彼はアイスティーをすすりながら呟いた。

 「行こう、どっか行こう」私は即座に頷いた。私はいつも飽き飽きしていたのだ。この檻のような身体に囚われ続けてあと何年生きれば、私は本当の解放を知るのだろう、などと芝居がかって嘆いていたのだ。そのくせ臆病なものだから何処へも行く勇気はない。ひとところに留まりながらぶつくさと不満を吐く、精神的な老人だった。だから何処でもよかった。この爽やかに明るいモスバーガーの店内から一刻でも早く立ち去れるなら。そそくさと食べ終わったトレイを片付けて、上着をとった。彼はさっきまでペーパーに落書きをしていたペンをかばんに突っ込み(彼は紙とペンががあればいつでも絵を描いていたた)、そのまま京都駅へ向かった。

四条から京都駅への道の途中に住んでいた頃だったので、やっぱり必要だろうと思ってかばんに少しだけ、下着の替えとハンカチを数枚詰めた。それだけでじゅうぶんだった。化粧もいらない、何もいらない、必要なものは身体だけあればいい。本当なら手ぶらで行きたかったけれど、そうも行かないだろうからと持った、最小限の荷物にして手に持つと、かばんは存外重くなっていた。

   京都駅はいつもよりも一段と人で賑わっていたように思う。年の瀬。クリスマスイブ。どこかの誰かが誰かに会いに行くために出ていく駅。どこかの誰かが誰か を迎えるために待つ駅。手に紙袋を幾つも提げた人や大きな荷物を持っている人もいる。場違いなような気もした。普段着で、身軽だったから。

   行き先は本当に決まっていなかった。ふと会話の中で「関空特急はるかはどこに行くんだろうね」と、禅問答のような切れ端が出たのだ。乗るのははるか にしよ う、関空に行こうと何となく話が決まり、次のはるかが来るまでそれなりに時間があったので、立ち食い蕎麦屋で蕎麦をすすった。ぶよぶよと肥大した天ぷらの乗った、油っぽい蕎麦。

   車内で特急券と乗車券を買った。入場するために最低限の切符しか買わなかったので、はるかに乗るには到底金額が足りなかったのだ。車内に入った途端私たちは二手に分かれて席を選ぶ。そして二人とも、別々の席に座った。その方が旅人っぽく見えるからだ。示し合わせたわけではなかったが、それは思ったよりも風通しがよくて、私たちにとってちょうどよい距離だ。歩くときも話すときも喋るときも、私たちには常に距離があった。どんなに身体的に近寄っていても、精神的には大地を分かつ深い川のような距離があり、それが縮むことは全くなかった。けれどそれを淋しく思ったことは殆どない。むしろあれ以上には近寄れないことに私は常に安堵していたのだから。がらがらに空いたはるかの中で、私は金色に染まっていく京都を見送った。殆ど話さなかった。話す必要も感じなかった。車内は少し乾いていて暖かかった。


  普段大阪に行くために乗る阪急梅田線と違って人の少ない車内で、静かに、でも確実になにかへの期待が膨らんでいった。どこかへ行けることが嬉しかった。思 えば私はどこかへ行く途中が一番好きなのだ。目的地よりも。車内販売も、移る景色も、毛羽だったシートも含めて。


   関空特急が終点に滑り込んだときは、短い冬の日はすっかり沈んでいて、昼の暖かさも明るさも遠かった。初めての駅だったのでそれでもちっとも構わなかっ た。関空にはまだタカシマヤがあって、閉店間際のその中をさっとだけ回った。人がいなくて、でも暖房で清潔で明るい店内だった。

  デパートの匂いは、何処でも対して違わないんだなあとその時ふと思った。そして彼は本当につまらなさそうに(実際つまらなかったのだ、私も)ぼうっと店内をぐるっと見回していた。店内の、輪郭だけを眺めているような、ふわふわした眼差しで。私はでもその眼差しが好きだった。柔らかい秋の日差しに似ていたから。

   彼のそのふわふわした視線はでももう行く場所を決めていて、それは関空に来たからには飛行機に乗ることだった。この時間以降でも乗れる国内線を探したら、 どうやら二つあるらしい。一つは女満別、もう一つは鹿児島。こういうときは、行く先は北に決まっている。女満別を選ぶつもりだった。


  でも女満別には行けなかった。理由はよく思い出せないが兎に角、選べなかったのだった。仕方なく鹿児島に行くことにして、チケットを自動チェックイン機で買った。無機質に吐き出さ れたチケットを財布にしまい、その時点で私はもう殆ど飛行機に乗っていた。身体だけが関空にあった。そんな気持ちだった。

  座席は、彼は迷うことなく窓際を選んでいた。私は「飛行機が飛ぶ」という事だけに随分興奮していたので、窓の外の夜の空は見なかった。というか見たのかも知れないが全く記憶にない。スパンコールのような街の灯りだったかもしれない。でもグレーのシートに深々と座っていたことに満足していた。

2010年3月20日土曜日

1月、2月の読書メーターまとめ

2010年2月の読書メーター
読んだ本の数:8冊
読んだページ数:2270ページ

■観光 (ハヤカワepiブック・プラネット)
読了日:02月25日 著者:ラッタウット・ラープチャルーンサップ
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■エル・スール
常に「あなた」である父への語りかける物語。少女アドリアナの息づかいが聞こえてきそうなくらい、静謐で清潔な孤独の物語だった。最初の異性である父に対して抱いているのが、親愛と畏怖の絡み合った独特の感情なので、起こらなかった近親相姦や殉死の匂いも漂っている。アドリアナが行き着いたスールは、夢のように美しい所だったのだろう。いずれ映画も観てみたい。
読了日:02月22日 著者:アデライダ ガルシア=モラレス
http://book.akahoshitakuya.com/cmt/5094264

■「少女神」第9号
クールでキュートでファニー!こんな少女小説はアメリカでないと出てこないだろう。セックスやジェンダー、ドラッグ、ロックなどなど、日本のよいお父様お母様たちから見たら眉をひそめられてしまうだろうから。ただこの短編集の少女たちは、そこそこ裕福な家庭の子供たちだ。だからこそ持てあましている「ほてり」のような物があるのだろう。文字はレインボーグラデーション。いつか消えてしまう美しい若い時代、大人への架け橋としての虹の色を現したのだろうか。
読了日:02月19日 著者:フランチェスカ・リア ブロック
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■くらやみの速さはどれくらい (海外SFノヴェルズ)
読了日:02月14日 著者:エリザベス ムーン
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■ナイトメア―心の迷路の物語
読了日:02月07日 著者:小倉 千加子
http://book.akahoshitakuya.com/b/4000241613

■家のロマンス
読了日:02月07日 著者:加藤 幸子
http://book.akahoshitakuya.com/b/4103452080

■オール・マイ・ラヴィング
中学生の頃の、身体の中で不機嫌さとぼおっとした熱気で火照ってもてあまし気味になる、あの時の気分を思い出す。ビートルズ全盛期に思春期を過ごした著者の自伝風長編なのだが、ビートルズの面々が顔を出しているわけではない。中学生だからこそ気持ちだけが先走って言葉がついてこない、あの妙な焦りや大人ぶった中に残っている幼さ、またその逆のものがつんつん金平糖のとげみたいに飛び出している。ああ、これは青春小説なんだ。
読了日:02月06日 著者:岩瀬 成子
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■レベッカ
読了日:02月01日 著者:ダフネ・デュ・モーリア
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▼読書メーター
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2010年1月の読書メーター
読んだ本の数:10冊
読んだページ数:3283ページ

■サレンダー
案外子どもは丈夫なのだが、それは子どもが世界から落下しないためであって、芯から丈夫なわけではない。アンウェルの孤独、疎外感には思い当たるものがある。囲い込むような孤独はアンウェルを、埋葬布のように包んでいった。誰もが見ていながら知らぬふりをしている内に。アンウェルには悪意がない。それがなお読者に悲しみややりきれなさ、残酷さを突きつけてくるように思う。YAの枠に収まらないハートネットには圧倒されてばかりだ。
読了日:01月30日 著者:ソーニャ ハートネット
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■灰色の魂
読了日:01月28日 著者:フィリップ・クローデル
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■新潮クレストブックス初夜 (新潮クレスト・ブックス)
ユーモラスなのに、それだけでは終わらない。最後まで緊張感の続く物語だった。「初夜」に至までのまだるっこさを、若夫婦のあらゆる(現在或いは過去からの)視点がフィナーレまで続く。初夜というのは当事者でなければ、ロマンティックと言うよりグロテスクなのだろうが、読み進むうちに悲しみとおかしみ、二人への愛おしさが募る物語だった。
読了日:01月24日 著者:イアン・マキューアン
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■抱擁
侯爵(こうこうはくしだん、のこう)のお屋敷で小間使いとして雇われた年若い「わたし」。最後にある短い一言は!全ては「そこ」に向かうためだった、とはいえ…すごく、淋しくなる終わりだった。
読了日:01月21日 著者:辻原 登
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■薔薇密室
飛び抜けて美しいものも一種の畸形だと聞いた。強い光の下にはより濃い影が出来るようなものだと。ある一人の男が創った完結していない物語の本が、あちらやこちらに出現し、登場人物を惑わす。薔薇の溢れる僧院、窓のない部屋、ナチスドイツなどは舞台としても演出のための道具としても、この倒錯的な、隔離された世界の中で綴られる物語の、増幅装置になっていると思う。
読了日:01月18日 著者:皆川 博子
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■真鶴
失ったものは二度とは失えない、と思っていた。でも再び失うこともあるのだった。川上さん独特の読点の打ち方、擬態語はよくわからないが浮遊感がある。浮遊感というか、足もとの床が柔らかくなってしまうような、不穏な気持ちがする。柔らかな赤ん坊が成長して内側から硬くなる、という記述がとても好きだ。
読了日:01月14日 著者:川上 弘美
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■一期一会・さくらの花 (講談社文芸文庫)
傍観者のように淡々としていて、肉親の死もファンであった俳優の死も、何事もあるがままに受け入れている。悲しみさえも取り込んでしまって、その文章は感傷を洗い張りした着物のよう。文章に立ち上るような色気があることもなく、またその物語が波瀾万丈ドラマチックなものでもない。けれど、それなのに読まずに過ごすのは惜しい気になる。作家自身の視点がとても落ち着いていて、どんな場面でも俳優ぶることもないからだろうか。
読了日:01月10日 著者:網野 菊
http://book.akahoshitakuya.com/cmt/4437709

■七姫幻想
『戻り川心中』を再読したくなった。後ろ盾なくしては、ただ一本の糸のようなか弱いおんなの物語をミステリーに仕立て上げている。上品で風雅な雰囲気の和歌を用いておんなの情念や時代に振り回されるほかなかった寄る辺の無さなどが描かれていたように思う。全て読み終わると連作とはいえ、どれもかなり濃くリンクしているようだ。不勉強な部分が自分に多く、作品を作者の思惑通り丸ごと堪能したとは言えないかも知れないけれど。最後の五行にどきりとした。
読了日:01月08日 著者:森谷 明子
http://book.akahoshitakuya.com/cmt/4411627

■カサンドラの城
読了日:01月07日 著者:ドディー スミス
http://book.akahoshitakuya.com/b/4931284930

■完全版 最後のユニコーン
読了日:01月02日 著者:ピーター・S. ビーグル
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2010年1月14日木曜日

剥がれ落ちてゆく私、あなた、





  『真鶴』(川上弘美 文藝春秋)を読んだ。読むかどうか迷って、結局は読んだ。このひとの本を読むと、自分がうすく剥がれ落ちていくような気がして、不穏な気持ちになる。嵐の直前のような、波の高い海を見ているような、そういう気持ち。波立つ冬の冷たい海を覗いている気持ちもに近い、ような気もする。読んでいる最中は波になっているのかも知れない。読み終わると、頭の奥から鳴るぼおっという霧笛で、色々なものがかき消される。かき消されてしまうから、仕方なく本当のまなこの他に頭の中にもうひと組あるまなこを閉じるしかなくなる。そうすると、しばらく現実が遠ざかってしまう。だから読むか迷う。今読むか、今読まないか、いつか読むか、いつまでも読まないか。四つの選択肢の中で、けれど選んでしまうのは「今読む」だ。
   恋心や愛情、憎しみ、希望、たくさんのものを失ってきたけれど、私は人を失ったことはないはずだった。だから、京(けい 主人公)が礼(れい 京の夫)を 失うことがわからなかった。礼は物語の中でいない人だ。でも、いないのに、ずっといる。数字のゼロのように、存在しない数なのに概念だけが「ある」ように。だから物語の中で京は何度も礼を失っている。失っているというか、 失い続けている(最終的には、失い続けなくてもよよくなる)。京につきまとう女のようにぴったりとはり付いて傍観者になって見ていると、だんだん息詰まっ てくる。深呼吸しても、胸元に詰まったのったりした餅のようななにかは、滑り落ちることもなく嘔吐されることもなく留まっていて、本を閉じても息苦しい。 やり場のない船酔いのよう。

  失うということはこわいことだ。私は失いたくない。自らが手放すと決められないということ、否応なしに手元からなくなると決定されることがこわい。だから私は失いたくない。


  人を所有したことは一度もない。というより、人は人を所有できない。所有していないしできないものなら失うことはない。産んだ子どもですら私は所有できていない(子どもは私に属している、或いは私が子どもに属している。どちらにしろお互いはお互いを所有しているわけではないと思う)のだから、私が産んでいない大人など所有できるはずもない。
  けれども、ひとと二度と会わないだろうと決まった瞬間から、私からそのひとが剥がれ落ちてゆく。失うのではなく、剥がれる。私のある部分にそのひとの一部分を覆い被せていたそのひとは、剥がれて元の、そのひとの身体に戻ってゆこうとする。そのひとが私から剥がれ私からそのひとが剥がれると、もう私はそのひとに干渉できなくなる。それを、私は哀しく思うしかできない。これまでに何度も見続けてきた、私から剥がれ落ちてゆくあなた(がた)、あなた(がた)から剥がれ落ちてゆく私。あなた(がた)も同じように私を哀しく見つめてくれたのだろうか。乾いた指先から白く剥がれ落ちてゆく、死んだ皮膚のような私を。

  ぼろぼろと剥がれ落ちていった私は、一体どこにいるのだろう。あなた(がた)から失われた私を、戻ってくることを私は拒んでいるのだろうか。あなた(がた)から離れて一体どこに行ってしまったのだろう。剥がれ落ちた、私だったかのじょたちは、私からも失われてしまったのだろうか。えいえんに。永遠。

修道院のサラダ

  冬になってから、冷たい野菜を食べていない。冷たい野菜、とは、サラダのこと。サラダはよく冷えていた方が美味しいし、火照った身体をさますのに丁度いいと思う。良く冷やした水に近い食べ物で、果物ならすいかに近しい。私の中でサラダは夏の食べ物で夏の季語だ。だから冬になってからはサラダは食べていない。

  失ったものの方がうつくしかったり、比べるとより価値があったように思うのと同じ。「むかし」「そこ」になくて「いま」「ここ」にあるものをうつくしく思うことは少ない。「むかし」「そこ」にあって「いま」「ここ」にあるものは過去と現在を繋げているのだから、うつくしく思えなくても、構わない。いずれうつくしくなるだろう。「むかし」「そこ」にあって「いま」「ここ」にないものが、うつくしくこころに残る。ものをうつくしがれるのはそれが既に過去になっているからだ。過去で止まっているからだ。過去の色を留めているからだ。

  それと同じように食べていないものは、食べていないときの方がより鮮明に「美味しい」或いは「美味しかった」と思う。同じ材料で同じ作り方で同じ条件ででも、過去の味に勝るものはすくない。それは記憶が美化しているだけかも知れないけれど、その最上級のサラダが、修道院で食べたサラダだ。

  お世話になったシスターがいて、かのじょが新田原の修道院から京都へ来られたことがあった。九州へ帰られる前に会えたらとお声をかけてくださって、私はいそいそと出掛けていったのだった。かのじょは変わらずふくふくと大らかで、しわが深く刻み込まれて日に焼けた手も、変わらず優しかった。頬ははじめて出会ったときと同じようにつやりと輝いていて、朗らかに笑う姿は、変わらない。

  どういう話の流れで修道院にお邪魔したのかはもう殆ど覚えていない。河原町教会で会ったはずで、めずらしくひとのいない教会を出た後、阪急京都線のある駅で降りたと思うのだけれど、もしかしたら大宮あたりで一旦降りて、ふたりで歩いていったような気もする。その頃私は、殆どものを食べず、カーテンを閉め切った部屋で壁を睨みつけて一日を過ごしているような不健全な生活をしていて、夏でも外出するにはごく薄いカーディガンを手放せずにいた。袖がない服を着ることが出来なかった。ものを食べないものだから不健康な顔色をしていて、今よりもさらに潔癖だった。冬ではなかったことだけが確かだけれど、梅雨入り前のことか、梅雨が明けた後のことか、よく覚えていない。ただその日が曇りだったことはよく覚えている。雨が降りそうな湿った空気が漂っていたけれど、降り出すには足りないというような曇りだった。

  シスターに伴われてふらりと現れた(と言うよりほかない)部外者である私を、その修道院のシスターは快く迎え入れてくださった。低くうなりそうな空の下、修道院の裏手にあるささやかな畑を見ながら中へ招かれ、食卓のある小さな部屋へと促される。窓の外で猫がそそくさと通りすぎていくのを見ながら、気恥ずかしさと小さな居心地の悪さを抱きつつ、遅めの昼食をいただいた。小さなおにぎり、トースト、そして修道院の裏手でとれたと野菜を使った、サラダ。みずみずとしたうすい、春の海の色をしたきゃべつとちりちりっとフリルが可愛らしいレタス、しゃっきりしたたまねぎをざっくりと皿に盛った簡素なサラダは、存外のどごしが良くて驚いた。美味しかった。ただもう美味しかった。

  ふたりのシスターは朗らかで、元気だった。その中でいちばん年若いはずの私よりも断然溌剌としていて、それでいて静かだった。日が傾き始める前に私たちは修道院をおいとまして、シスターは九州へ、私は自分の部屋へ帰った。桂より東に部屋を借りていたので、日暮れに向かって、帰った。歩いて戻ったのか途中でバスに乗ったのか、それは覚えていない。胃袋の中でレタスもきゃべつもきっちり消化を始めているのが分かったけれど、そのことに久しぶりに罪悪感を持たずに、そのまま眠ったのだった。

  その日以前も以来も、何度も葉野菜のサラダを食べているけれど、全然、あのときのサラダの味にはならない。味が近づくこともない。近いような気になることもない。例えば今、別の修道院でサラダをいただいても、あの時と同じ味にはならないことは、何となく分かっている。二度と食べられない、「むかし」「そこ」にあったサラダ。「いま」「ここ」にいる私が、永遠に失った修道院のサラダ。今よりももっと簡単に「絶望」していた頃のはなし。

滅びの王国

『すえっこOちゃん』という本を借りた。Oちゃんのほんとうの名前はオフェリアだけど、いつもOちゃんと呼ばれている。スウェーデンのある町に住んでいる七人きょうだいの末っ子で今は五歳。年上のきょうだいがいるのでおませさんだそう。奔放ではちゃめちゃだけれど、OちゃんにはOちゃんの理屈がし...