ミレイの絵に、「はじめての説教」と「二度目の説教」がある。初めて教会の信徒席に座ることを許された、赤いコートの幼女が、厳粛な面持ち——それは彼女が持ちうる限りの厳粛さで——お説教を聞いている絵と、二度目の教会でのお説教で、ふと張りつめていた緊張を緩めて、身体をくにゃりと曲げて転寝している、二枚の絵。
去年の暮れに、カテイノジジョウにかたがつき、今年は新しく始めるのだと思いながら、月日を過ごした。嘘のない日々を。笑われるとしても、自分を卑下することはなく、微笑み返すことの出来る日々を。その時には既に涙を失っていたので、随分気楽だった。もう泣く必要もないと言う事は、自己憐憫に浸りきって絞り出す哀しみもないはずだから、と(とは言え、十月に映画館で二時間ほど泣いたので、完璧に涙を失ったわけではなかったのだが)。それ以外には一切涙も滲まない生活をしているので、実際どうかは、まだよくわからないけれど、私は随分健康になったように思う。頭が健康でいられるというのは、とてもよい。
今年は、私の「はじめての説教」だった。真っ直ぐと前だけを見て、声の聞こえる方へ耳を傾け、口を結び、全てをただ受け入れる、受け流すのではなく。それはとても気持ちのよいことで、今でもまだ少し、ぽうっとしている。初めての説教を聞いた後の彼女が、軽い興奮と安堵と、そして祝福に包まれているように。
来年、と言ってももうあと僅かな時間しか今年は残っていないけれど、来年もまた同じようでありたい。いつでも初めてであるように、受け入れる余地を持ちながら、その光の道を歩いていけるように、謙虚でありたい。
そしてまた、あなたたちに会いたい。